またまたこういう私小説のようなタッチで、思索的で、なんだか日記論文でも読んでいるようで、難しいからまるで頭に入らないし、でも、読んでいることは楽しい。なかなか読めないし、読んだ鼻から忘れていくから、何を読んでるのでしょうか、という感じなのだが、小難しい雑談を繰り出すようで、なるほど、と感心しながら、こんなもの読んでなんになる、とも、思う。だいたい、デビット・リンチの『インサイド・エンパイア』(と、その周辺のリンチ作品、『マルホランドドライブ』とかね)について、つらつら思うことをどこまでも、書き続けているだけ。1本の映画の話を300ページ以上にわたって書けるのか。普通じゃない。それが評論なら、まだわかるけど、そうじゃないし。
あの映画の描く不思議な世界を解釈するのではなく、その世界に入り込み、そこからいろんな問題に至る。しかし、『インサイド』はきっかけではない。これはひたすらあの映画自身のことである。もちろん、それだけではないことは明白だが、目次見て下さいよ。『インサイド・エンパイア』のタイトルばかりがどれだけ並んでいるか。どんだけ、書けるのだ。書くことがあるのだ。仕方ないから、最後まで付き合ってみようか、そんな気分になる。でも、それがどこにも到達しないことはこれまでの彼の小説が証明している。『朝露通信』を読み終えたときの虚脱感。悪くはないし、すごいけど、なんだかなぁ、という想いだ。今回もきっと同じなのだろう。