北野武の新作は久々となるヤクザ映画だ。本人が一度は封印したものを、再び取り上げるというのだから、それなりの覚悟を秘めた作品だろう、と楽しみに見た。だが、さすが北野監督である、まるで気負わない。今回はただひたすら娯楽映画に徹する。そのくせちゃんと残酷で、メジャー志向なのか、マニアックなのか、よくわからない。でも、まぁ、本人はまるで気にしてない。相変わらず本能のまま撮ってるように見える。(というか、そう見せるだけ)
遊びと本気の境目がない。一応シリアスなタッチにも見えるが、ここまでやられるとだんだん笑うしかなくなる。だいたい今の日本でここまで死者を出すとかなりの社会問題ではないか。というか、あり得ない。冗談のように死んでいく。『仁義なき戦い』の本気とはまるで異質の世界だ。ヤクザの抗争というよりも、子どもの喧嘩。今時のガキどもはこいつらよりは大人だ。これはチンピラ同士の小競り合いですらない。
コピーには「全員悪人」とあるが、みんなただのアホ。よくもまぁ、こんなヤクザがいたもんだ。彼らは今までどんなふうにしてシマを守ってきたのだろうか。これでは組織として、まるでなってない、と思うのだが。
錚々たる役者たちが顔を揃える。壮観である。彼らがみんな判で押したようにがなり立てる。ヤクザ=がなる、という図式がここにはある。呆れるくらいのルーティーンワーク。エピソードが串団子式なので、その単調さゆえ、だんだん退屈になる。すると、強烈な残酷描写が描かれて、えっ、となる。まるでアクセントのようにそれがある。ストーリーの流れの中では、主人公の大友(ビートたけし)は追いつめられていくのだが、演じるたけしには、まるでそんなリアクションはない。周囲の組員たちも大仰な反応はしない。すぐに「がなる」くせに、やってることはやけに冷静なのだ。死ぬ時もあっけない。頑張って死なない。
個性的な役者陣は、与えられた役を熱演せずにこなす。だが、彼らは将棋の駒ではない。何もせずとも、きちんと存在感をアピールする。彼らは、ただ、そこにいるだけで充分なのだ。トップの北村総一朗や友和から、事の発端のチンピラ、塚本高史まで。
かって浴びるように見た東映ヤクザ映画とはまるで違う世界だ。なんだか玉突きゲームのような映画である。新鮮か、といえば、そう言えないでもないが、おもしろい、というわけではない。
遊びと本気の境目がない。一応シリアスなタッチにも見えるが、ここまでやられるとだんだん笑うしかなくなる。だいたい今の日本でここまで死者を出すとかなりの社会問題ではないか。というか、あり得ない。冗談のように死んでいく。『仁義なき戦い』の本気とはまるで異質の世界だ。ヤクザの抗争というよりも、子どもの喧嘩。今時のガキどもはこいつらよりは大人だ。これはチンピラ同士の小競り合いですらない。
コピーには「全員悪人」とあるが、みんなただのアホ。よくもまぁ、こんなヤクザがいたもんだ。彼らは今までどんなふうにしてシマを守ってきたのだろうか。これでは組織として、まるでなってない、と思うのだが。
錚々たる役者たちが顔を揃える。壮観である。彼らがみんな判で押したようにがなり立てる。ヤクザ=がなる、という図式がここにはある。呆れるくらいのルーティーンワーク。エピソードが串団子式なので、その単調さゆえ、だんだん退屈になる。すると、強烈な残酷描写が描かれて、えっ、となる。まるでアクセントのようにそれがある。ストーリーの流れの中では、主人公の大友(ビートたけし)は追いつめられていくのだが、演じるたけしには、まるでそんなリアクションはない。周囲の組員たちも大仰な反応はしない。すぐに「がなる」くせに、やってることはやけに冷静なのだ。死ぬ時もあっけない。頑張って死なない。
個性的な役者陣は、与えられた役を熱演せずにこなす。だが、彼らは将棋の駒ではない。何もせずとも、きちんと存在感をアピールする。彼らは、ただ、そこにいるだけで充分なのだ。トップの北村総一朗や友和から、事の発端のチンピラ、塚本高史まで。
かって浴びるように見た東映ヤクザ映画とはまるで違う世界だ。なんだか玉突きゲームのような映画である。新鮮か、といえば、そう言えないでもないが、おもしろい、というわけではない。