角田光代がなんとボクシング小説を書く! なんか凄くないか。新境地開拓とか、そんな次元じゃない。今までの作品系列からあまりにかけ離れていて、大丈夫か、と心配になる。しかも、こんなにも分厚い。500ページに及ぶ力作だ。その上、主人公は男だ。しかも、主人公の彼がボクシングをする、という小説ではない。彼は雑誌の編集者で、たまたまボクシング雑誌の担当になっただけで、ボクシングとはまるで縁のなかった男なのだ。そんな設定でどんな小説が出来あがるのか、興味津々で読みだす。
ボクシングを題材にして、戦う男を描くのではない。ただ見ているだけの男が主人公だ。しかも、彼はずぶの素人だ。まるで、ボクシングを知らない。この作品の体温の低さは、従来の熱い(というか、暑苦しい)ボクシング小説とは一線を画する。なんだか醒めている。もちろん角田光代のねらいもそこにある。しかも、見つめる視点を女にはしなかったのもいい。同じ男でありながら、しかも同じジムに通いながら、彼には戦う気はない。文芸が希望なのに、人事異動でボクシング雑誌に配属され、仕方なくボクシングと向き合うことになった青年が、ひとりのボクサーと出逢い、彼に心魅かれる姿を描くのだが、あくまでも同化ではなく、距離を取る。その視線はどこまでいってもクールなのだ。そのボクサーに感情移入するのではない。だが、彼の生き方に興味を抱く。まるで素人なのだが、ボクシングというものに、少しずつ心魅かれていく。でも、熱くはならない。
結局は、どこまでいっても、なんで夢中になるのか、わからない、というのがいい。もちろん、彼なりにはボクシングに夢中になっているのだろうが、それがすべてにはならないのだ。しかも、それが彼だけではなく、もうひとりの主人公であり、実際にリングに立っている(彼が見つめる)ボクサーである立花もそうなのだ。彼もボクシングの力を信じているわけではない。ただなんとなく、リングに立ち、試合を続けているだけだ。チャンピオンを目指すわけだが、ただ流されているだけのようにも見える。
ボクシングというマイナースポーツに嵌って、後楽園に通う人々にとっても、ボクシングは無条件に信じられるもの、というわけではない。この小説は、そんな醒めた見方をラストまで貫いていく。リングでの立花の派手なパフォーマンス、作られた経歴も、演技の一種で、彼はトレーナーから指示されたそんなキャラクターを何の抵抗もなく演じる。本当なんかどうでもいい。ただ、今が退屈だった。だから、ボクシングをした。
この話の本当は、一体どこにあるのか。それが、よくわからない。小説のラストで主人公は再び配置換えで、今度は本来の希望だった文芸部に配属される。そこでの彼が、「本当の彼」で、彼は様々な作家の担当となり、実力を発揮する。ボクシング雑誌での無能ぶりとは隔絶の感がある。じゃぁ、「ザ・拳」(それが、彼が配属されていた雑誌のタイトルなのだが)編集部での3年間は何だったのか、と言われると、まわり道でもなく、仕事だから、というわけでもなく、もっと複雑な「何か」がそこには確かにある(はずなのだ)。
でも、自分にだってそれがよくわからない。でも、そこでのこだわり、わだかまり、ひっかかり、それがこの小説のテーマだ。そのわけのわからなさがおもしろい。この小説が描くのも、実はそこなのだ。淡々としたタッチで、ボクシングを描くというのも、なんだか不思議だが、そういう見せ方を敢えて取りそうすることで見えるものを角田光代は見せたかったのだろう。だからこれは単純な話ではない。主人公の空也(ここまでずっと「彼」で通してきたが、実はそんな名前だ!)は、デートの約束の途中で、たたたま目にしたTVで立花の試合を目撃する。立ち止まる。だが、それ以上のことはない。もう今の彼にとってその映像は過去の話でしかない。そこには感傷すらない。いや、ほんの少しはもちろんある。足を止めてブラウン管を見つめてしまった。そのせいで、ほんの少しデートの遅れた。でも、デートをキャンセルして、後楽園の行くわけではない。そんなラストがなんだか切ない。
ボクシングを題材にして、戦う男を描くのではない。ただ見ているだけの男が主人公だ。しかも、彼はずぶの素人だ。まるで、ボクシングを知らない。この作品の体温の低さは、従来の熱い(というか、暑苦しい)ボクシング小説とは一線を画する。なんだか醒めている。もちろん角田光代のねらいもそこにある。しかも、見つめる視点を女にはしなかったのもいい。同じ男でありながら、しかも同じジムに通いながら、彼には戦う気はない。文芸が希望なのに、人事異動でボクシング雑誌に配属され、仕方なくボクシングと向き合うことになった青年が、ひとりのボクサーと出逢い、彼に心魅かれる姿を描くのだが、あくまでも同化ではなく、距離を取る。その視線はどこまでいってもクールなのだ。そのボクサーに感情移入するのではない。だが、彼の生き方に興味を抱く。まるで素人なのだが、ボクシングというものに、少しずつ心魅かれていく。でも、熱くはならない。
結局は、どこまでいっても、なんで夢中になるのか、わからない、というのがいい。もちろん、彼なりにはボクシングに夢中になっているのだろうが、それがすべてにはならないのだ。しかも、それが彼だけではなく、もうひとりの主人公であり、実際にリングに立っている(彼が見つめる)ボクサーである立花もそうなのだ。彼もボクシングの力を信じているわけではない。ただなんとなく、リングに立ち、試合を続けているだけだ。チャンピオンを目指すわけだが、ただ流されているだけのようにも見える。
ボクシングというマイナースポーツに嵌って、後楽園に通う人々にとっても、ボクシングは無条件に信じられるもの、というわけではない。この小説は、そんな醒めた見方をラストまで貫いていく。リングでの立花の派手なパフォーマンス、作られた経歴も、演技の一種で、彼はトレーナーから指示されたそんなキャラクターを何の抵抗もなく演じる。本当なんかどうでもいい。ただ、今が退屈だった。だから、ボクシングをした。
この話の本当は、一体どこにあるのか。それが、よくわからない。小説のラストで主人公は再び配置換えで、今度は本来の希望だった文芸部に配属される。そこでの彼が、「本当の彼」で、彼は様々な作家の担当となり、実力を発揮する。ボクシング雑誌での無能ぶりとは隔絶の感がある。じゃぁ、「ザ・拳」(それが、彼が配属されていた雑誌のタイトルなのだが)編集部での3年間は何だったのか、と言われると、まわり道でもなく、仕事だから、というわけでもなく、もっと複雑な「何か」がそこには確かにある(はずなのだ)。
でも、自分にだってそれがよくわからない。でも、そこでのこだわり、わだかまり、ひっかかり、それがこの小説のテーマだ。そのわけのわからなさがおもしろい。この小説が描くのも、実はそこなのだ。淡々としたタッチで、ボクシングを描くというのも、なんだか不思議だが、そういう見せ方を敢えて取りそうすることで見えるものを角田光代は見せたかったのだろう。だからこれは単純な話ではない。主人公の空也(ここまでずっと「彼」で通してきたが、実はそんな名前だ!)は、デートの約束の途中で、たたたま目にしたTVで立花の試合を目撃する。立ち止まる。だが、それ以上のことはない。もう今の彼にとってその映像は過去の話でしかない。そこには感傷すらない。いや、ほんの少しはもちろんある。足を止めてブラウン管を見つめてしまった。そのせいで、ほんの少しデートの遅れた。でも、デートをキャンセルして、後楽園の行くわけではない。そんなラストがなんだか切ない。