読みながら、ここまで暗い気持ちになるのはめったにないことだ、と思った。さすがにこんな不幸の連鎖はなかろう。なのに、読みながらとても幸せな気分になる。もちろん不幸が幸せではない。この不幸の先に見える一条の光に共鳴するのだ。ささやかな輝きが未来を照らす。
5つの物語はありえないような不幸の歴史で、そのそれぞれの境遇は似ている。同じじゃないのに、同じように不幸なのだ。この一軒の家を巡るお話は他人から見たなら、だだの不幸なのだろう。だから、近所の人からのうわさ話の中傷を聞き、嫌な気分になる冒頭から主人公である彼女の物語は不吉な予感を孕んで始まる。
築25年で持ち主が5度も変わった。先にも書いたように、通りがかった近所の女性から「ここが不幸の家って呼ばれていたのを知ってて買ったの?」と言われショックを受けるところから話は始まる。第1章「おわりの家」からスタートして時代を遡り、第5章の「しあわせの家」まで。ここに住んだ住人のそれぞれのお話が綴られていく短編連作のスタイルを取る。そのいずれのお話も救いようがないほど不幸なのだ。詳細は書かないけど、読んでいて、息苦しくなるほどだ。でも、荒唐無稽ではなく、十分にありえる、いや、これはどこにでも転がっているような不幸なのかもしれないと思わせる。
不妊治療の話や、夫の浮気、暴力、子供への虐待、親の介護、そのいずれもが我慢の限度を超えている。なのに、彼女たちは耐えている。なんとかならないか、と何度となく思う。読みながらこの先に未来はないと、何度となく思う。だけど、ギリギリでなんとか、なっていくのは、彼女たちが自分に誠実に生きたからだろう。安易な解決策が提示されるわけもない。この先、また同じような、いや、これ以上の不幸が押し寄せてくるかもしれないという不安は当然ある。(だからとても彼女たちのその後が知りたいと思う)大丈夫だ、なんて言わないけど、それでもきっと明るく生きていくのだろう、とは思う。そんな希望を抱かせてくれるのがこの小説の魅力だ。この家が呪われているのではない。それどころか、この家は結果的に彼女たちを幸せに導いてくれる。
誰だって幸せになりたいと願う。好き好んで不幸を求めるような人はいない。だけど、気が付くととんでもない不幸を抱えている。そこから抜け出す術もない。八方ふさがりの現実の中で、なんとかして出口を求める。その結果更なる袋小路に陥ることもある。ここは入口でもあり、出口でもある。
この瀟洒な3階建ての家。そこに暮らすことになるそれぞれの家庭の抱える現実と向き合う。外からは見えない実情。こんな素敵な家なのにそこにあるどうしようもないことの数々。さらには庭の枇杷の木に象徴する5世帯の歴史。それは隣家の婦人のお話も含めて、この素敵な高台の家があるこの街が「うつくしが丘」と呼ばれる所以を読み終えた時、適切に伝えることとなる。ここは確かに、こんなにも美しい場所なのだ。しみじみとそう思う。枇杷の木にまつわるエピソードの顛末がエピローグで語られたときに、そこに生じる幸せを噛みしめることになる。