『ひとり日和』は、20歳の女性が、一人暮らしの老人のもとに身を寄せて、共に暮らす1年のお話。母の仕事の都合で、一人ぼっちになった知寿は、遠い親戚の吟子という71歳の老婆のところにやって来た。大学に行くでもなく、ただなんとなくフリーターとして生きている彼女は、将来に対する漠然とした不安を抱えて生きているはずだが、そんなことおくびにも出さない。まだ若いから、ではない。若いとか、老いているとかいう問題ではない。ある種の諦めが彼女を支配している。諦念、なんていう悟りきったものではない。なんとなく、でしかない何かがある。
好きになった男の子は、しばらくすると彼女のもとを去っていく。何がいけないのか、よくわからないが、他に女が出来てしまう。彼女の性格が災いしてるのかもしれない。何度もそんなことが続くから、もう諦めている。でも、何だかなぁ、と思う。
「おばぁちゃんって楽?」
「ふふ、知寿ちゃんにはそう見える?」
「見える。若者は、全然楽しくない。」
「でも、楽しいときだってあったでしょう」
「ない」
小説のラスト。彼女はある会社の事務のアルバイトを始める。そして、請われるままそこに就職して、吟子さんのもとを去り、寮に入る。それだけのことが、彼女の一つの覚悟を伝える。なにもないのに心に沁みる。
『また会う日まで』もとても淡いお話。こちらは1週間の話。主人公の有麻は、おもいきって1週間の休暇をとり、東京に出てきて男友達の家に泊めてもらう。別に恋人ではない。ただの友達でそれだけ。(こういう設定には少し驚く。)
高校2年の修学旅行の夜。2人きりで話したこと。ずっと好きだったのに会えない人がいる。思い切って彼に会うために、東京に来たのだ。(もちろんそれは泊めてもらってる男の子ではない)連絡を取り、ほんの少し彼に会え、時間を過ごす。彼は結婚するらしい。彼はあの頃と当然変わってる。がっかりしたりしない。そんなことではない。これは片思いの話ではない。もっともっと淡い「恋よりも特別な思い」のお話。彼のストーカーをする女、凪子と出会い、なぜか共感しあうことになる。25歳にもなってまだ、高校時代の思いをひきずっていること。自分の中でひっかかっている何かを確認したい。ただそれだけのことなのだ。
この2冊の小説が切り取ろうとしたものは、あまりにささやか過ぎて見過ごしてしまいそうな感情だ。うまく言葉にできないものをなんとか、描きとめることに成功している。
こんなことを小説に書いても仕方ない、と言われかねないくらいに微妙だ。だけれども彼女たちはそんなことを1編の一応長編小説に仕立てる。短編ではなく長編というところに拘りたいのだろう。感情を形にして見せるために一篇の作品を紡ぎ上げる。その姿勢に好感が持てる。
好きになった男の子は、しばらくすると彼女のもとを去っていく。何がいけないのか、よくわからないが、他に女が出来てしまう。彼女の性格が災いしてるのかもしれない。何度もそんなことが続くから、もう諦めている。でも、何だかなぁ、と思う。
「おばぁちゃんって楽?」
「ふふ、知寿ちゃんにはそう見える?」
「見える。若者は、全然楽しくない。」
「でも、楽しいときだってあったでしょう」
「ない」
小説のラスト。彼女はある会社の事務のアルバイトを始める。そして、請われるままそこに就職して、吟子さんのもとを去り、寮に入る。それだけのことが、彼女の一つの覚悟を伝える。なにもないのに心に沁みる。
『また会う日まで』もとても淡いお話。こちらは1週間の話。主人公の有麻は、おもいきって1週間の休暇をとり、東京に出てきて男友達の家に泊めてもらう。別に恋人ではない。ただの友達でそれだけ。(こういう設定には少し驚く。)
高校2年の修学旅行の夜。2人きりで話したこと。ずっと好きだったのに会えない人がいる。思い切って彼に会うために、東京に来たのだ。(もちろんそれは泊めてもらってる男の子ではない)連絡を取り、ほんの少し彼に会え、時間を過ごす。彼は結婚するらしい。彼はあの頃と当然変わってる。がっかりしたりしない。そんなことではない。これは片思いの話ではない。もっともっと淡い「恋よりも特別な思い」のお話。彼のストーカーをする女、凪子と出会い、なぜか共感しあうことになる。25歳にもなってまだ、高校時代の思いをひきずっていること。自分の中でひっかかっている何かを確認したい。ただそれだけのことなのだ。
この2冊の小説が切り取ろうとしたものは、あまりにささやか過ぎて見過ごしてしまいそうな感情だ。うまく言葉にできないものをなんとか、描きとめることに成功している。
こんなことを小説に書いても仕方ない、と言われかねないくらいに微妙だ。だけれども彼女たちはそんなことを1編の一応長編小説に仕立てる。短編ではなく長編というところに拘りたいのだろう。感情を形にして見せるために一篇の作品を紡ぎ上げる。その姿勢に好感が持てる。