20代半ばの女の子の感傷的な気分だけで1本の芝居を作られたりしたら、ちょっと参るよな、なんて声が聞こえてきそうだ。1時間ほどの短い芝居は内容が内容だけに、決して短いとは思わない。
女の子の感傷的な気分が、繰り返し、繰り返し語られていき、それは見ていて辟易させられる。作者は、奥行きのあるドラマ作りをここでする気は全くない。彼らの背景も必要以上には一切語られない。この一瞬の気分だけが、この芝居のすべてとなる。
同窓会の帰り道、狭い路地に座り込んで鼻歌を歌っている男の子(谷啓吾)。ひとり、何するでもなく、サザンの『真夏の果実』を歌ってた。つい、足を止めてしまった彼女(未緒)はその男の子と言葉を交わすことになる。
たったそれだけの話である。人気のない夜の道。空堀の町を舞台にして、この大阪市内の古い町並みを背景にした小さな物語は、リアルとはとてもいえない。ちょっとしたファンタジーとでも言えそうな内容だ。
こんな風に、女の子の切ない胸の内を語られても何とも言いようがない。実は、そんな風に突き放してもいい、と思った。しかし、本当はそんな風にはしたくない。敢えてこの芝居をこういう風に作ろうとした作、演出の十時直子さんの気持ちが、痛いほど分かるからだ。彼女は、とても微妙な想いを芝居のしようとする。
主人公は、デパートの事務の仕事をしている。単調な毎日の生活に、ほんの少し疲れている。中学卒業以来、10年ぶりの同窓会で、大好きだった人と再会し、少し盛り上がる。でも、その後、憂鬱がやって来る。「明日の仕事早いから」と言い2次会にも行かずに、帰る夜道。果たして、彼女は彼と話なんて出来たのか。それすらも、本当のことかどうか分からない。想像の中のお話という気もする。それは、偶然出会ったこの男の子に話す会話の中で語られる今日の同窓会の出来事だ。
寂しい気持ちは誰もが心に抱いている。それをいろんなことで誤魔化したりする。彼女はまだ、26歳だ。年下の男の子には、もっと若くみえるよ、なんて言われる。(余談だが、僕に言わせると、20歳も30歳もあまり変わらない。若い女の子という意味では同じだ。)
恋人もいなくて、単調な毎日で、自分の人生なんて、とてもつまらないと思う。だけど、そんな感傷を1本の芝居にしてしまう、ということはかなり危険を伴う行為だ。一人よがりになり兼ねない。この芝居を成立させるためには、もう少し《何か》が必要である。女の子の感傷と付き合うのは嫌いではない。彼女の中の空っぽな気持ちを、そのままに捉えて1本の芝居を作り上げていくことは、とても素敵なことだと思う。でも、ここには《大切な何か》が足りない。これでは、単なる感傷に過ぎない。
この場所が、一体何を意味するのか。なぜ、この男の子は夜中にこんなところに座り込んでいたのか。きっかけは、サザンだ。タイトルにもある。でも、サザンを通して彼らが共有体験するものって何なのか。彼らが抱く気分。それが、もっときちんと掬い取られないことには、この芝居は、これだけのものとして、止まってしまう。これが1本の作品として、成立するためには、そんなもう少しが必要なのである。
その日の同窓会の会場となった居酒屋で勤める女性(野村ますみ)が、偶然ここを通ったことで2人は再会する。(彼女もこの辺に住んでるようだ)全く見知らぬ他人である彼女から声を掛けられる。同窓会の会場で彼女はひとり浮いていたのか。それでなくては、ただの客を覚えていたりしないだろう。女は彼女を自分の家に誘う。この路地のむこうの長屋に住んでいるのだ。
芝居は、こうして路地のむこうに1歩踏み出すところで終わる。ここで終わってしまうのはしかたないけど、ここにこの芝居の限界を感じる。踏み出したむこうのあるもの。踏み出すことで、見えてくるもの。それをしっかり提示しないことには、この芝居は終われない。
大黒によって遮断され、本来の舞台となるべき空間を一切使わない。そのため、極端に狭くなったアクティング・エリア。そこで芝居は展開する。それによって、彼らが佇む路地を表現した。こんな風に思い切った舞台空間の使い方をするのは悪くない。簡単なようで、大胆極まりない空間設定である。こうすることで、視覚的にリアルな町並みを再現すること以上の効果を発揮する。夜の闇をしっかり示すことに成功している。
路地というより、建物と建物の間に出来た「隙間」でしかない場所。しかし、そこは生活路として、活用されており、この隙間のむこうには、長屋や町家があり、そこで生活する人がいる。ここは街の中の隠れ里のようになっている。
古い町並み、入り組んだ道。狭いエリアにたくさんの家が立ち並ぶ。区画整理もなく、建てられた昔の町。大阪上町台地のとても不思議な迷宮を舞台に、ここに暮らす女の子の、心の闇を一瞬の風景として切り取ろうとしたこの作品は、とても志の高い素敵な作品だ。そして、もう少しで凄い芝居が誕生した。僕はそのことを残念だ、とは思わない。
女の子の感傷をそれ以上でも、それ以下にすることもなく描いたこの小さな作品を通して十時さん自身がどこに抜けていこうとするのか、この先に見える風景を、次回作に期待したい。
女の子の感傷的な気分が、繰り返し、繰り返し語られていき、それは見ていて辟易させられる。作者は、奥行きのあるドラマ作りをここでする気は全くない。彼らの背景も必要以上には一切語られない。この一瞬の気分だけが、この芝居のすべてとなる。
同窓会の帰り道、狭い路地に座り込んで鼻歌を歌っている男の子(谷啓吾)。ひとり、何するでもなく、サザンの『真夏の果実』を歌ってた。つい、足を止めてしまった彼女(未緒)はその男の子と言葉を交わすことになる。
たったそれだけの話である。人気のない夜の道。空堀の町を舞台にして、この大阪市内の古い町並みを背景にした小さな物語は、リアルとはとてもいえない。ちょっとしたファンタジーとでも言えそうな内容だ。
こんな風に、女の子の切ない胸の内を語られても何とも言いようがない。実は、そんな風に突き放してもいい、と思った。しかし、本当はそんな風にはしたくない。敢えてこの芝居をこういう風に作ろうとした作、演出の十時直子さんの気持ちが、痛いほど分かるからだ。彼女は、とても微妙な想いを芝居のしようとする。
主人公は、デパートの事務の仕事をしている。単調な毎日の生活に、ほんの少し疲れている。中学卒業以来、10年ぶりの同窓会で、大好きだった人と再会し、少し盛り上がる。でも、その後、憂鬱がやって来る。「明日の仕事早いから」と言い2次会にも行かずに、帰る夜道。果たして、彼女は彼と話なんて出来たのか。それすらも、本当のことかどうか分からない。想像の中のお話という気もする。それは、偶然出会ったこの男の子に話す会話の中で語られる今日の同窓会の出来事だ。
寂しい気持ちは誰もが心に抱いている。それをいろんなことで誤魔化したりする。彼女はまだ、26歳だ。年下の男の子には、もっと若くみえるよ、なんて言われる。(余談だが、僕に言わせると、20歳も30歳もあまり変わらない。若い女の子という意味では同じだ。)
恋人もいなくて、単調な毎日で、自分の人生なんて、とてもつまらないと思う。だけど、そんな感傷を1本の芝居にしてしまう、ということはかなり危険を伴う行為だ。一人よがりになり兼ねない。この芝居を成立させるためには、もう少し《何か》が必要である。女の子の感傷と付き合うのは嫌いではない。彼女の中の空っぽな気持ちを、そのままに捉えて1本の芝居を作り上げていくことは、とても素敵なことだと思う。でも、ここには《大切な何か》が足りない。これでは、単なる感傷に過ぎない。
この場所が、一体何を意味するのか。なぜ、この男の子は夜中にこんなところに座り込んでいたのか。きっかけは、サザンだ。タイトルにもある。でも、サザンを通して彼らが共有体験するものって何なのか。彼らが抱く気分。それが、もっときちんと掬い取られないことには、この芝居は、これだけのものとして、止まってしまう。これが1本の作品として、成立するためには、そんなもう少しが必要なのである。
その日の同窓会の会場となった居酒屋で勤める女性(野村ますみ)が、偶然ここを通ったことで2人は再会する。(彼女もこの辺に住んでるようだ)全く見知らぬ他人である彼女から声を掛けられる。同窓会の会場で彼女はひとり浮いていたのか。それでなくては、ただの客を覚えていたりしないだろう。女は彼女を自分の家に誘う。この路地のむこうの長屋に住んでいるのだ。
芝居は、こうして路地のむこうに1歩踏み出すところで終わる。ここで終わってしまうのはしかたないけど、ここにこの芝居の限界を感じる。踏み出したむこうのあるもの。踏み出すことで、見えてくるもの。それをしっかり提示しないことには、この芝居は終われない。
大黒によって遮断され、本来の舞台となるべき空間を一切使わない。そのため、極端に狭くなったアクティング・エリア。そこで芝居は展開する。それによって、彼らが佇む路地を表現した。こんな風に思い切った舞台空間の使い方をするのは悪くない。簡単なようで、大胆極まりない空間設定である。こうすることで、視覚的にリアルな町並みを再現すること以上の効果を発揮する。夜の闇をしっかり示すことに成功している。
路地というより、建物と建物の間に出来た「隙間」でしかない場所。しかし、そこは生活路として、活用されており、この隙間のむこうには、長屋や町家があり、そこで生活する人がいる。ここは街の中の隠れ里のようになっている。
古い町並み、入り組んだ道。狭いエリアにたくさんの家が立ち並ぶ。区画整理もなく、建てられた昔の町。大阪上町台地のとても不思議な迷宮を舞台に、ここに暮らす女の子の、心の闇を一瞬の風景として切り取ろうとしたこの作品は、とても志の高い素敵な作品だ。そして、もう少しで凄い芝居が誕生した。僕はそのことを残念だ、とは思わない。
女の子の感傷をそれ以上でも、それ以下にすることもなく描いたこの小さな作品を通して十時さん自身がどこに抜けていこうとするのか、この先に見える風景を、次回作に期待したい。