『ただ、君を愛してる』の新城毅彦監督の第2作である。前作に続いて主人公は死んでいく。ここには、愛する人が死んでいくことをただ見つめることしか出来ない無力さが、根底にある。
そのことに対して主人公たちは何の抵抗もしない。諦めているわけではない。しかし、その運命に抗ったとしても変えることは不可能なのだ。あらかじめ決められていたのならば、受け入れるしかない。受け入れた上で、どう生き、そして死んでいくのか。それが彼らにとって大切なことになる。
遅かれ早かれ、人は死ぬ。そう居直ってしまうしかない。それは、しかたがないことなのだ。
『ただ君』の主人公の女の子は、生涯でただ一度のキスを、生きてきた証として、受け留め、その思い出を胸に短い生涯を生き抜いた。彼が大好きだった写真を、自分の仕事にして、写真を通して、彼に対する自分の想いを綴ることで自分の人生を全うした。
それに対して本作の主人公は、突然の癌を受け入れきれず、パニックに陥り、とてもみっともない。彼の妻は、しっかりその事実を受け入れ生きていこうとするのに、である。死んでいく人間の痛みなんて、生きていられる人間には分かるまいなんて言わさない。『ただ君』のヒロインはしっかりそれを受け入れ一人で生き抜いたではないか。
男は弱くて、女は強いなんてことを言うつもりもない。男と女なんて関係ない。これは一人ひとりの人間の問題なのだ。この2本の映画は全然違うアプローチがなされているから、こんな比較はナンセンスということは充分承知している。だが、新城監督がなぜこの映画を引き受けたのか、そしてここで何を描こうとしたのか、を考えていく過程で2本の共通点から、比較検討することで、新城監督の中でこの問題がどんなふうに熟成していったのか、そんなことに対するなんらかの答えが分かる気がしたのだ。
この映画の主人公夏樹(大沢たかお)は肝臓がんとなり、余命3ヶ月と診断される。その結果うつ病とパニック症候群を併発し、何も出来なくなる。死の恐怖から、心を閉ざしてしまう。
そんな中、彼は文章を書くことで、そこに生きがいを見出していく。その結果、死の直前まで、穏やかに執筆活動を続けれることになる。ウインド・サーフィンのプロとして、自分の人生を全力で生き抜いてきた男が、新しい生きがいを見つけ、死んでいくその日まで、大好きな妻子に見守られながら、小説を書いていく。この映画の大事なポイントはここにある、気がした。何が生きていく上での縁(よすが)となるのか、それを描くための映画なのではないか。だから、これは闘病記ではない。
写真、小説という自己表現方法を通して、死の恐怖を乗り越えていく。弱くてちっぽけな人間の姿を、静かに見つめていく新城監督の誠実な仕事ぶりは、僕たちに生きていくことの意味を、確かなものとして、心に深く沁みるように伝えてくれる。
そのことに対して主人公たちは何の抵抗もしない。諦めているわけではない。しかし、その運命に抗ったとしても変えることは不可能なのだ。あらかじめ決められていたのならば、受け入れるしかない。受け入れた上で、どう生き、そして死んでいくのか。それが彼らにとって大切なことになる。
遅かれ早かれ、人は死ぬ。そう居直ってしまうしかない。それは、しかたがないことなのだ。
『ただ君』の主人公の女の子は、生涯でただ一度のキスを、生きてきた証として、受け留め、その思い出を胸に短い生涯を生き抜いた。彼が大好きだった写真を、自分の仕事にして、写真を通して、彼に対する自分の想いを綴ることで自分の人生を全うした。
それに対して本作の主人公は、突然の癌を受け入れきれず、パニックに陥り、とてもみっともない。彼の妻は、しっかりその事実を受け入れ生きていこうとするのに、である。死んでいく人間の痛みなんて、生きていられる人間には分かるまいなんて言わさない。『ただ君』のヒロインはしっかりそれを受け入れ一人で生き抜いたではないか。
男は弱くて、女は強いなんてことを言うつもりもない。男と女なんて関係ない。これは一人ひとりの人間の問題なのだ。この2本の映画は全然違うアプローチがなされているから、こんな比較はナンセンスということは充分承知している。だが、新城監督がなぜこの映画を引き受けたのか、そしてここで何を描こうとしたのか、を考えていく過程で2本の共通点から、比較検討することで、新城監督の中でこの問題がどんなふうに熟成していったのか、そんなことに対するなんらかの答えが分かる気がしたのだ。
この映画の主人公夏樹(大沢たかお)は肝臓がんとなり、余命3ヶ月と診断される。その結果うつ病とパニック症候群を併発し、何も出来なくなる。死の恐怖から、心を閉ざしてしまう。
そんな中、彼は文章を書くことで、そこに生きがいを見出していく。その結果、死の直前まで、穏やかに執筆活動を続けれることになる。ウインド・サーフィンのプロとして、自分の人生を全力で生き抜いてきた男が、新しい生きがいを見つけ、死んでいくその日まで、大好きな妻子に見守られながら、小説を書いていく。この映画の大事なポイントはここにある、気がした。何が生きていく上での縁(よすが)となるのか、それを描くための映画なのではないか。だから、これは闘病記ではない。
写真、小説という自己表現方法を通して、死の恐怖を乗り越えていく。弱くてちっぽけな人間の姿を、静かに見つめていく新城監督の誠実な仕事ぶりは、僕たちに生きていくことの意味を、確かなものとして、心に深く沁みるように伝えてくれる。