おそるべき若手作家グザヴィエ・ドランの最新作をちゃんと劇場で見る。これまではDVDでしか見たことがなかったけど、こいつの映画は絶対に劇場で見るべきだ、と思ったから、今回何があろうとも、公開が始まるとすぐに劇場に向かう覚悟だった。なのに、先日、ポール・トーマス・アンダーソンの『インヒアレント・ヴァイス』を見に行った時、なんと横の劇場でこの映画が公開されていた。衝撃だ。もうやってたやん、と。それほど、今の映画はこまめにチェックしてないと、知らぬ間に上映が終わっているということだ。(というか、僕がうっかりしているからか?)でも、気づいてよかった。
このめんどくさい映画は絶対に劇場で見るべきだ。スクリーンサイズが正方形なんていうありえない映画を初めて見た。スタンダード(1対1・33)ではない。正方形というよりも、気分的には縦長である。狭いなんてものではない。その圧迫感たるや。しかも、クローズアップが多い。そこで長回しとか。もう、観客にけんか売ってるんちゃうんか、状態である。
当然ストーリーもきつい。こんなしんどい話、御免こうむりたい。でも、スクリーンに釘付け。とことん嫌な話なのに、目が離せないのだ。2時間18分という長い映画だ。登場人物はほぼ、3人。母親と息子。隣家の主婦。それぞれの抱える闇を共有することなく、お互いが支えあう。でも、どうしても最終的には自分の問題でしかない。当たり前ではないか、なんて言いたくはない。だって彼女は彼の母親なのだ。たったひとりの母親と息子である。わかりあえないはずはない、し、なんとかして彼を救いたい。自分の人生なんか擲っても構わない。確かにそう思う。でも、自分は母親であるけど、ひとりの人間でもある。自分の人生もある。彼をすべて抱えるだけのキャパシティなんか、悲しいけど、ない。だから、誰かに頼りたい。そこで、隣家の主婦が出てくる。彼女は吃音で、家庭は崩壊している。原因はどこにあるか、定かにはされない。優しそうな夫、かわいい盛りの娘。でも、ダメだ。そんな彼女が主人公の息子を助けることで、自分自身が再生していく。こうして、3人はもたれ合いながら、少しずつ前進していく。
昨年公開された最高傑作『チョコレートドーナツ』とよく似た図式ではないか。あれは、男3人だったけど。ダウン症の少年とふたりの大人の男たち。彼らは少年を支えることで自分自身の再生を果たしていくドラマだ。だが、この映画はさらに厳しい。
映画の中で2度だけスクリーンが大きくなる。ほんの一瞬だけど。横に広がり、ビスタサイズにまでなる。なんだか解放された気分になる。でも、そんな幸せな気分は長く続かない。すぐに、日常が戻ってきて、スクリーンサイズも、もとのサイズへと戻るのだ。彼らが幸せになる図式は描かれない。どこまでいこうとも、疲弊しか残らない。息子はこんなにも、母親を求めている。彼女は彼の期待に応える。しかし、それにも限界がある。というか、いいかげん乳離れしろよ、と思う。でも、ダメだ。
ラストシーンで、明るい陽射しの中に飛び出す少年に未来はない。収容施設に連れ戻されるのがオチだろう。そんなこと、わかっている。でも、それでも、彼が光のほうへと走り出したシーンで終わるこの映画は未来に希望を見出している。