賛否両論を呼びそうな作品だ。それを作、演出の中村賢司さんは楽しんでいる。向こうサイドにも客席と同じように椅子が並べられている。対面型ではない。あれは舞台の一部である。そこには所々に思い思いの姿勢をした黒い人形が置かれてある。役者たちがその間に間隔をあけて坐る。彼らは舞台上のドラマを我々観客と同じように見る。
お花畑の中に死体が転がっている。整然と並ぶコスモスの花。死体(黒い人形)の傍らには2人。探偵と助手。さぁ、探偵小説の幕が開く。だが、なんだかおかしい。この芝居はわかりやすい謎解きとしてのお話を見せない。終始、観念的なお話として展開していくだけだ。
これはコカイン中毒の患者が見た妄想、なのか?あえて、そうではないと主人公には語らせる。ストーリーは淀みなく流れていくこともなく、何度も中断され、さまざまな物語は断章のように語られる。それらが1本のストーリーとして繫がっていくこともない。これは1人の男の脳内宇宙。そこでの出来事。
探偵は死体と遭遇する。何故彼は死んだのか。あるいは殺されたのか。事件の謎を解き明かしていく。そこにいたたくさんの目撃者。彼らの証言が語られていき、事件が究明されていく。本来ならそうなるはずだが、一切そういう展開にはならない。だいたい探偵と助手は外側で見ているだけで、彼らとはかかわりを持たない。死体と遭遇した人々は、その死体との関係性を語るのではなく、「死」そのものについての話をする。ここでは匿名性を帯びた死体を巡っての机上の空論のみが展開していくのだ。もちろん死体と彼らが何ら関係がないというわけではない。だが、必ずしも彼らの語る死体が同じ男とは限らない。
正直言ってこの芝居を好意的に受け止める観客は少ないのではないか。よくわからないとかつまらないとかいう意見がたくさん出てきそうだ。中村さんがここに仕掛けた生と死の宇宙を巡る思索は口当たりのいい物語の枠から大きくはみ出してしまっている。こんなにも観念的な話を見せられてかなりの観客戸惑うことになるだろう。だが、中村さんはためらうことなくこのスタイルでラストまで押し通していく。なんだかとても潔い。
お花畑の中に死体が転がっている。整然と並ぶコスモスの花。死体(黒い人形)の傍らには2人。探偵と助手。さぁ、探偵小説の幕が開く。だが、なんだかおかしい。この芝居はわかりやすい謎解きとしてのお話を見せない。終始、観念的なお話として展開していくだけだ。
これはコカイン中毒の患者が見た妄想、なのか?あえて、そうではないと主人公には語らせる。ストーリーは淀みなく流れていくこともなく、何度も中断され、さまざまな物語は断章のように語られる。それらが1本のストーリーとして繫がっていくこともない。これは1人の男の脳内宇宙。そこでの出来事。
探偵は死体と遭遇する。何故彼は死んだのか。あるいは殺されたのか。事件の謎を解き明かしていく。そこにいたたくさんの目撃者。彼らの証言が語られていき、事件が究明されていく。本来ならそうなるはずだが、一切そういう展開にはならない。だいたい探偵と助手は外側で見ているだけで、彼らとはかかわりを持たない。死体と遭遇した人々は、その死体との関係性を語るのではなく、「死」そのものについての話をする。ここでは匿名性を帯びた死体を巡っての机上の空論のみが展開していくのだ。もちろん死体と彼らが何ら関係がないというわけではない。だが、必ずしも彼らの語る死体が同じ男とは限らない。
正直言ってこの芝居を好意的に受け止める観客は少ないのではないか。よくわからないとかつまらないとかいう意見がたくさん出てきそうだ。中村さんがここに仕掛けた生と死の宇宙を巡る思索は口当たりのいい物語の枠から大きくはみ出してしまっている。こんなにも観念的な話を見せられてかなりの観客戸惑うことになるだろう。だが、中村さんはためらうことなくこのスタイルでラストまで押し通していく。なんだかとても潔い。