ツァイ・ミンリャンは『青春神話』(92)とカンヌでパルムドールを受賞した『愛情万歳』(94)のたった2作品で世界の頂点を極めた台湾を代表する監督のひとりだ。しかし、この2本の後、自家薬籠中に陥り迷走を続けることになる。
今回の2作品はともに、いったい何が言いたいのか、何がしたいのかすらわからない出来だ。特に台湾で大ヒットしたというこの『西瓜』は酷い。そのバランス感覚の欠如は痛々しいまでだ。
台湾で突然旱魃が起こり、水不足は深刻で、水道も止まり人々はペットボトルの水を買い漁り生活している中、一人のポルノ男優(もちろんリー・カンションだ)と彼が出会う女(当然テェン・シャンチー)の物語が展開していく。
いきなりのノーテンキミュージカルは『ホール』の時にもしていたからあまり驚かないが、それにしても唐突過ぎて、そこまでのドラマの流れを完全に塞き止め、遊離してしまい、何のためにこういうシーンが必要なのか、よくわからない。しかも、これがド派手でバカバカしい。もちろんそれが彼のねらいなので、意図通りなのだが、それにしても、そんな描写に何を込めたのかは全くわからない。
女は男がポルノ俳優と知り、彼の撮影現場を覗くシーンがラストに用意される。壁の向こうで、死んだように眠る日本から呼んで来たAV女優を犯し続ける男を無表情で見続けてきた女が、堰を切ったように喘ぎ始め、そんな女の口の中に男が射精するという衝撃的なラストシーンをどう受け止めたらいいのか。
彼らの孤独な魂が、他者と一緒に居る事で、癒されていく、というわかり易いストーリーラインはもう辿らない。それは初期の頃から一貫している。しかし、この作品では、それがさらに一線を越えてしまって、人と人との関係はセックスを通して築かれていく、という幻想すら笑い飛ばしてしまう勢いである。セックスはその行為による擬似恋愛で、身体を重ねあうことで、お互いが一体化していくという幻想を抱かせることが可能な行為だが、そんなもの、その一瞬の感情が高揚している時だけのものであり、人と人との関係を深めていくものではない。
この映画に於ける性行為はただ単なる欲望の捌け口としてのAV映画に収斂されていく。女はただのものでしかなく、男も同じである。繰り返されるセックスはただの作業であり、商品を提供するための労働でしかない。汗だくになり、ビデオ撮り続けるスタッフと男女の役者は快楽のためではなく奉仕しているだけなのだ。
ヒステリーを起こし、旅行鞄の鍵を自分で窓から放り投げてしまった女は、後でその鍵を必死に探すことのなる。男は彼女に鍵を与え、鞄を開けようとするが鍵があるのにびくともしない。女は男に西瓜ジュースを与え続けるが、男はそれを女が見ていない隙に窓から捨ててしまう。こういうなんでもない描写の中に、この映画を解き明かすヒントは隠されている。しかし、いくつものこういう描写は有機的に結合していかないから、見ていてイライラが募る。
彼ら2人との絶対的な距離感はツァイ・ミンリャンのねらいだ。水不足による狂気という基本設定を宙ぶらりんのままにしてしまうことや、西瓜に象徴される毒々しさと笑ってしまいそうなグロテスクは映画全体をしっかり覆っている。全てが彼の計算通りなのである。なのに、それが観客である我々に伝わってこないまま終わっていくもどかしさは何なのだろうか。
『ふたつの時、ふたりの時間』の明らかに続編ともいうべき設定(腕時計を巡るエピソードだけでそれを象徴する)も含めて、ツァイ・ミンリャンの中で映画はどんどん進化していっているのは解る。しかし、そのスピードについていけないでいる自分がもどかしい。
馬鹿げたミュージカル、呆れた設定、悪ふざけに見えて、そのくせいつものような淡々とした描写。滑稽なまでものセックス描写。敢えてこのバランス感覚を大きく欠く作品を大胆不敵にも我々の前に提示して見せたツァイ・ミンリャンの挑戦はこれからも続く。
今回の2作品はともに、いったい何が言いたいのか、何がしたいのかすらわからない出来だ。特に台湾で大ヒットしたというこの『西瓜』は酷い。そのバランス感覚の欠如は痛々しいまでだ。
台湾で突然旱魃が起こり、水不足は深刻で、水道も止まり人々はペットボトルの水を買い漁り生活している中、一人のポルノ男優(もちろんリー・カンションだ)と彼が出会う女(当然テェン・シャンチー)の物語が展開していく。
いきなりのノーテンキミュージカルは『ホール』の時にもしていたからあまり驚かないが、それにしても唐突過ぎて、そこまでのドラマの流れを完全に塞き止め、遊離してしまい、何のためにこういうシーンが必要なのか、よくわからない。しかも、これがド派手でバカバカしい。もちろんそれが彼のねらいなので、意図通りなのだが、それにしても、そんな描写に何を込めたのかは全くわからない。
女は男がポルノ俳優と知り、彼の撮影現場を覗くシーンがラストに用意される。壁の向こうで、死んだように眠る日本から呼んで来たAV女優を犯し続ける男を無表情で見続けてきた女が、堰を切ったように喘ぎ始め、そんな女の口の中に男が射精するという衝撃的なラストシーンをどう受け止めたらいいのか。
彼らの孤独な魂が、他者と一緒に居る事で、癒されていく、というわかり易いストーリーラインはもう辿らない。それは初期の頃から一貫している。しかし、この作品では、それがさらに一線を越えてしまって、人と人との関係はセックスを通して築かれていく、という幻想すら笑い飛ばしてしまう勢いである。セックスはその行為による擬似恋愛で、身体を重ねあうことで、お互いが一体化していくという幻想を抱かせることが可能な行為だが、そんなもの、その一瞬の感情が高揚している時だけのものであり、人と人との関係を深めていくものではない。
この映画に於ける性行為はただ単なる欲望の捌け口としてのAV映画に収斂されていく。女はただのものでしかなく、男も同じである。繰り返されるセックスはただの作業であり、商品を提供するための労働でしかない。汗だくになり、ビデオ撮り続けるスタッフと男女の役者は快楽のためではなく奉仕しているだけなのだ。
ヒステリーを起こし、旅行鞄の鍵を自分で窓から放り投げてしまった女は、後でその鍵を必死に探すことのなる。男は彼女に鍵を与え、鞄を開けようとするが鍵があるのにびくともしない。女は男に西瓜ジュースを与え続けるが、男はそれを女が見ていない隙に窓から捨ててしまう。こういうなんでもない描写の中に、この映画を解き明かすヒントは隠されている。しかし、いくつものこういう描写は有機的に結合していかないから、見ていてイライラが募る。
彼ら2人との絶対的な距離感はツァイ・ミンリャンのねらいだ。水不足による狂気という基本設定を宙ぶらりんのままにしてしまうことや、西瓜に象徴される毒々しさと笑ってしまいそうなグロテスクは映画全体をしっかり覆っている。全てが彼の計算通りなのである。なのに、それが観客である我々に伝わってこないまま終わっていくもどかしさは何なのだろうか。
『ふたつの時、ふたりの時間』の明らかに続編ともいうべき設定(腕時計を巡るエピソードだけでそれを象徴する)も含めて、ツァイ・ミンリャンの中で映画はどんどん進化していっているのは解る。しかし、そのスピードについていけないでいる自分がもどかしい。
馬鹿げたミュージカル、呆れた設定、悪ふざけに見えて、そのくせいつものような淡々とした描写。滑稽なまでものセックス描写。敢えてこのバランス感覚を大きく欠く作品を大胆不敵にも我々の前に提示して見せたツァイ・ミンリャンの挑戦はこれからも続く。