昨年夏台湾に行ったとき、この映画が公開直前で宣伝されていた。(『海街diary』も同じように公開直前だったので、ポスターやチラシが出回っていた)面白そうなので印象に残った。しかも、夏のHPFでこの映画と同じアイデアの芝居があって、偶然の一致とはいえ驚いた。こんなとんでもないアイデアが韓国と日本で同時多発的に作られる。ひとつは映画として、ひとつは高校生のお芝居として。とても、興味深いと思った。ようやく、映画のほうも見て、改めて高校生のほうがうまい、ということを実感できたのがまず一番の収穫か。
このアイデアは奇抜で面白いけど、これで1本の作品を作るのは困難だ。そのことを映画を見ながら、実感する。芝居は1時間にまとめたことと変化する姿を4,5人程度に収めたので(だって、そんなにもたくさんはキャスティングできないし)それぞれのドラマが濃厚に描けた。映画はなんて100人以上がキャスティングされている。ここまでするか、と驚く。すごい。だが、お話としてはこれは自殺行為だ。こうすると、お話を持続するためのポイントを彼に設定できない。だって、数分でワンエピソードを終えることになるし、つながりからドラマをつむぐのが難しい。その結果主人公は彼ではなく、相手役の彼女にならざる得なくなる。
ストーリーは単純だ。毎日、朝起きると、別人になってしまう、という病気?になった男が、その現実を受け入れ生きていくのだが、ある女性を好きになることで、その恋を成就させるためにどうするのか、というお話。とんでもない話でしょ。
これは難しい。しかも、困難の上塗りのような設定をする。高校生のころ、この病気が発症する。当然それからは高校には行けない。自分を失って生きるしかない。しかも、変身は年齢を無視する。ある時は老人に、あるときは子供に、外国人の場合もあるし、男女も見境なし。もうお手上げ。眠らなければ、現状を維持できるが、3日が限界だ。そんな括りの中で、お話は展開していく。(上野樹里がその内のひとりを演じている。当然日本人役なので、彼女は日本語しか話せない、という設定になる。しかも、朝鮮語しかわからない、という設定。たしか、そうだったような)
恋人となる女性は彼のこういう性情を受け入れて、それでも好きになるのだが、毎日違う男(ときには、女)と付き合うこと(外見だけで、内面は同じなのだが、この場合の外見は大きい)で、だんだん精神に異常をきたしてくる。頭ではわかっていても、心も体も受け付けられなくなるのだ。そんなのは当然だろう。さぁ、どうなる?
これは実に、着地点の取り方が難しい。悲恋ものにしても、ハッピーエンドにしても、収まりが悪くなるからだ。結果的に映画は無難なところに落ち着かせた。仕方ないなぁ、と思う。だが、もっと何か、できなかったのか、という遺恨は残る。