シアターカフェNYANで2時間の長編を上演することは無謀ではないか、という外野のいらぬ心配を他所にして、伊藤昌弥さんはしたたかにこの作品を仕立ててしまった。参りました、と言うしかない。
この作品が示した方向性が、今後のこういう狭い空間での演劇の一つの可能性を押し広げることになればいい。作り込めないスペースでの演劇についてはこれまでも様々な挑戦はなされてきたが、この芝居の当たり前の仕掛けは目から鱗だ。
まず、彼女が目を付けたのは、2部構成という方法だ。長時間この空間に観客を縛り付けることはできない。ならば、休憩を入れる。当然の選択だろう。だが、休憩は芝居への集中を欠く。そこで、彼女は前半を捨てる。どういうことかと言うと、前半の40分で芝居は展開しない。状況の提示だけで済ますのだ。登場人物の紹介を兼ねた人間関係と、この芝居の世界観の解説。それのみに時間を費やす。ただし、ここまで見てもこの芝居の魅力は伝わらない。それどころか、なんだかよくわからないままで終わる。40分という短さは物足りない。もっと見たかったのに、というところで休憩になる。果たしてこの芝居は大丈夫なのか、と心配になるくらいだ。でも、そこも計算のうちだから大丈夫。
演出家の男(屋敷和義)を中心にして4人の女たちが登場する。男の妻であり、このカフェのオーナーであるいっちゃん(朧ギンガ)、この演出家の新作で主演するまぁちゃん(森田三絵)、アルバイトのカワイちゃん(佐藤あかね)。彼女たち3人の微妙な関係性が提示させる。そして、そこにもうひとり。白塗りの女(ハラダマサミ)が、彼らのいるこの空間を浮遊する。この女の不気味さは、この芝居をリアリズムから異空間へと叩き落とす。なんとも居心地の悪いこの前半が、実は本題に入る後半で効いてくる。
休憩後の1時間がこの芝居の眼目だ。そこでは彼女たちの関係が突き詰められていく。そこにこの芝居の面白さがある。わかりやすさではなく、複雑に絡み合ったそれぞれの思惑の交錯が実にスリリングなのだ。女たちのしたたかさの中心にいたはずの演出家が踊らされていくという図式もいい。そんな中での白眉は前述のなんとも場違いで、この場にそぐわない亡霊女ハラダマサミである。圧倒的な存在感を示す。反対に自分の存在を包み隠してこの場をドライブする佐藤あかねもいい。彼女たち2人がこの芝居をリードする。まぁ、当然の布石だろう。嘘つきという集団自体が彼女たち2人のユニットなのだから。
10分の休憩には、キャストがそのまま客席にやってきて、観客と歓談したりする。まるで終演後のような和やかさ。実はそれもまた、この芝居の仕掛けでもある。
今回の台本はイプセンの『人形の家』を下敷きにしている。そして、その戯曲を上演する島村抱月と松井須磨子の物語も、彼らのドラマと重なり合う。それらのテキストを刷り込みながら、この男と女たちの愛憎劇が展開する。男女のジェンダーを巡る様々な問題にも目配せしながら、ドロドロの愛憎劇に止まらない開かれた視点が提示されていく。芝居全体の着地点が、とてもさらりとしていて、そこまでの仰々しさとまるで違う世界になる。男を巡るいざこざなんか突き抜けて、生きて行く力を指し示す。したたかな女たちの前では、男はただ奉仕するだけの存在でしかない。それは上から目線のフェミニズムなんかではない。確かな事実なのだ。恐るべし、女たち。
この作品が示した方向性が、今後のこういう狭い空間での演劇の一つの可能性を押し広げることになればいい。作り込めないスペースでの演劇についてはこれまでも様々な挑戦はなされてきたが、この芝居の当たり前の仕掛けは目から鱗だ。
まず、彼女が目を付けたのは、2部構成という方法だ。長時間この空間に観客を縛り付けることはできない。ならば、休憩を入れる。当然の選択だろう。だが、休憩は芝居への集中を欠く。そこで、彼女は前半を捨てる。どういうことかと言うと、前半の40分で芝居は展開しない。状況の提示だけで済ますのだ。登場人物の紹介を兼ねた人間関係と、この芝居の世界観の解説。それのみに時間を費やす。ただし、ここまで見てもこの芝居の魅力は伝わらない。それどころか、なんだかよくわからないままで終わる。40分という短さは物足りない。もっと見たかったのに、というところで休憩になる。果たしてこの芝居は大丈夫なのか、と心配になるくらいだ。でも、そこも計算のうちだから大丈夫。
演出家の男(屋敷和義)を中心にして4人の女たちが登場する。男の妻であり、このカフェのオーナーであるいっちゃん(朧ギンガ)、この演出家の新作で主演するまぁちゃん(森田三絵)、アルバイトのカワイちゃん(佐藤あかね)。彼女たち3人の微妙な関係性が提示させる。そして、そこにもうひとり。白塗りの女(ハラダマサミ)が、彼らのいるこの空間を浮遊する。この女の不気味さは、この芝居をリアリズムから異空間へと叩き落とす。なんとも居心地の悪いこの前半が、実は本題に入る後半で効いてくる。
休憩後の1時間がこの芝居の眼目だ。そこでは彼女たちの関係が突き詰められていく。そこにこの芝居の面白さがある。わかりやすさではなく、複雑に絡み合ったそれぞれの思惑の交錯が実にスリリングなのだ。女たちのしたたかさの中心にいたはずの演出家が踊らされていくという図式もいい。そんな中での白眉は前述のなんとも場違いで、この場にそぐわない亡霊女ハラダマサミである。圧倒的な存在感を示す。反対に自分の存在を包み隠してこの場をドライブする佐藤あかねもいい。彼女たち2人がこの芝居をリードする。まぁ、当然の布石だろう。嘘つきという集団自体が彼女たち2人のユニットなのだから。
10分の休憩には、キャストがそのまま客席にやってきて、観客と歓談したりする。まるで終演後のような和やかさ。実はそれもまた、この芝居の仕掛けでもある。
今回の台本はイプセンの『人形の家』を下敷きにしている。そして、その戯曲を上演する島村抱月と松井須磨子の物語も、彼らのドラマと重なり合う。それらのテキストを刷り込みながら、この男と女たちの愛憎劇が展開する。男女のジェンダーを巡る様々な問題にも目配せしながら、ドロドロの愛憎劇に止まらない開かれた視点が提示されていく。芝居全体の着地点が、とてもさらりとしていて、そこまでの仰々しさとまるで違う世界になる。男を巡るいざこざなんか突き抜けて、生きて行く力を指し示す。したたかな女たちの前では、男はただ奉仕するだけの存在でしかない。それは上から目線のフェミニズムなんかではない。確かな事実なのだ。恐るべし、女たち。
白眉とはおそれおおい。が、確かに、伊藤が、ハラダが、今まで溜め込んだ女怨念の集大成ではあるので、認めて頂けて安堵です。
シタタカナ女達を描いたつもりはないのですよ。ただ、おっしゃる通り、既存のフェミニズムはどうしても超えたかった。ワタシとオレが、一緒にいられるやり方を、今のワタシタチにそぐう在り方を、せめて探す姿だけでも表したかった。受け止められ方は様々で、それも嬉しい。
このレビューに、今後の力、頂きました。ありがとうございました!
と、以下は削除して頂きたいのですが、ご承知の上での表現なら失礼なんですが、屋敷と森田は劇団員なのです…。すみません、たまにしか上演しない劇団で…。