クリント・イーストウッド監督、主演のアカデミー賞受賞作品のリメイクである。李相日監督は単なる再映画化ではなく、原作へのリスペクト以上に、あの作品への自分なりの挑戦としてこれと取り組んだ。オリジナルにインスパイアされ、そこから自身でオリジナル脚本を作る。明治維新期の北海道を舞台にして、かつて人斬り十兵衛と呼ばれ官軍からも恐れられた男(渡辺謙)が、再び刀を抜く。
時代が変わり、妻と出逢い、もう刀は棄てたはずだった。だが、3年前に妻を死なせ、今、飢え凍える子供たちのために、賞金稼ぎに手を染める。それは生きていくための選択だった。だが、果たしてそうか。彼は死に場所を求めていたのではないか。幼い2人の子供たちを残して、彼らのためと言い訳して、子供たちを棄てる。まず、この動機の部分で納得がいかなかった。
僕には逃げ出すようにしか見えなかった。「半月で帰ってくる」と言うが、本気でそう思っていたのか。妻を失い、幼い2人の子供を抱え、慣れない農業に手を染め、厳しい自然の中で疲れていた彼は昔の仲間である金吾(柄本明)の誘いを一度は断るも、結局は彼とともに行動することになる。彼の弱さがまず前面に出る。そこから話は始まる。だが、渡辺謙が演じるとこの男が立派に見え過ぎてそうは見えない。
原作とストーリーの基本は同じなのだが、より明白に主人公の設定を死に場所を求める男にシフトした。さらにはそこにアイヌの問題も重ねて、作品は滅びゆくものへの挽歌にもなる。監督の気持はわからないでもないのだが、あまりに図式的すぎた。しかも、十兵衛をヒロイックに描きすぎる。彼のずるさや、弱さが描けていない。あまりにかっこよさすぎる。
許されざる者とは、女郎を玩んだ2人の男たちではなく、十兵衛自身であることは明白なのだが、では、彼の何がそう言わしめるのか。かつてたくさんの人を殺した過去か。そして今またお金のために人を殺そうとする行為か。もちろんそんな単純なものではない。彼が背負うありとあらゆるものがそう言わしめる。だが、それではあまりに観念的すぎないか? この映画はそういう象徴的なドラマなのだ、と言われたなら納得しないでもないけど、なんか違う気がする。過酷な北の大地を舞台にして、自分を追いつめていく主人公の生きざまを描く。演出は重厚で、役者は入魂の演技。全編緊張感が持続する大作である。だが、何か、とても大切なものが、ほんの少し足りない。そして、それが致命的だ。
時代が変わり、妻と出逢い、もう刀は棄てたはずだった。だが、3年前に妻を死なせ、今、飢え凍える子供たちのために、賞金稼ぎに手を染める。それは生きていくための選択だった。だが、果たしてそうか。彼は死に場所を求めていたのではないか。幼い2人の子供たちを残して、彼らのためと言い訳して、子供たちを棄てる。まず、この動機の部分で納得がいかなかった。
僕には逃げ出すようにしか見えなかった。「半月で帰ってくる」と言うが、本気でそう思っていたのか。妻を失い、幼い2人の子供を抱え、慣れない農業に手を染め、厳しい自然の中で疲れていた彼は昔の仲間である金吾(柄本明)の誘いを一度は断るも、結局は彼とともに行動することになる。彼の弱さがまず前面に出る。そこから話は始まる。だが、渡辺謙が演じるとこの男が立派に見え過ぎてそうは見えない。
原作とストーリーの基本は同じなのだが、より明白に主人公の設定を死に場所を求める男にシフトした。さらにはそこにアイヌの問題も重ねて、作品は滅びゆくものへの挽歌にもなる。監督の気持はわからないでもないのだが、あまりに図式的すぎた。しかも、十兵衛をヒロイックに描きすぎる。彼のずるさや、弱さが描けていない。あまりにかっこよさすぎる。
許されざる者とは、女郎を玩んだ2人の男たちではなく、十兵衛自身であることは明白なのだが、では、彼の何がそう言わしめるのか。かつてたくさんの人を殺した過去か。そして今またお金のために人を殺そうとする行為か。もちろんそんな単純なものではない。彼が背負うありとあらゆるものがそう言わしめる。だが、それではあまりに観念的すぎないか? この映画はそういう象徴的なドラマなのだ、と言われたなら納得しないでもないけど、なんか違う気がする。過酷な北の大地を舞台にして、自分を追いつめていく主人公の生きざまを描く。演出は重厚で、役者は入魂の演技。全編緊張感が持続する大作である。だが、何か、とても大切なものが、ほんの少し足りない。そして、それが致命的だ。