三角フラスコ『あと少し待って』
3月12日から13日にかけての出来事が描かれる。被災地での状況をピンポイントで切り取る。こういうドキュメンタリー・タッチの芝居がやがては出てくるだろうとは思ったが、今、実際にそれを目撃して感じたのは、このリアルさを演劇として舞台化し演じるには、あまりにまだ生々しいという事実だ。
本当ならこれを大阪に続いて、仙台でも上演するはずだった。しかし、諸般の事情で仙台公演は2012年4月に延期されることになったらしい。劇場の都合からということだが、大阪においてもあまりに生々しくて言葉を失うのだから、これを仙台で今上演するのは厳しいのではないか、と思う。もちろん被災地の現状を知らない自分には現地の心情を理解することは出来ない。東日本大震災から7ヶ月である。仙台を拠点に置く三角フラスコがこの作品を自分たちの町で上演する覚悟を決めて準備してきたわけなのだから、予定通りに行かなかったことは彼らにとってとても心外なことだろう。
ここに描かれるのは被災地の悲惨ではなく、あの日の記録であり、彼らがそれと冷静に向き合い、その日を日常として生きていく姿だ。それ以上でも以下でもない。ここにはひとつのテーマのもと、明確なメッセージはない。頑張って生きよう、とか、そんなこと、言うわけもない。
震災の翌日。地震の爪痕もなまめかしい。ライフラインの復旧もない。ただ、今は静かに状況が落ち着くのを待つばかりだ。自分たちが置かれている状況もわからない。これからどうなるのか、今どうなっているのかも定かではない。そんな中、知りあいのバーを避難所として、ここで過ごす4人の男女の2日間のスケッチである。電気が復旧して喜ぶシーンがある。水を汲みに行き、開いている店へ買い出しに行く。長い行列が出来ている。品数は少ない。そんなスケッチが描かれる。
だが、この芝居のハイライトになるのは、12日の夜、ここで初めて眠りにつくシーンだ。地震の当日は眠れなかったが、その日はほんの少しだけ落ち着き、店の床で毛布にくるまり眠りにつく。でも、くたくただけれど、目が冴えてなかなか眠れない。そんな4人のそれぞれの想いが静かな闇の中で描かれていく。照明はほとんど落として真っ暗な中で芝居が進行する。これといって特別なドラマがあるわけではない。だが、そのなにもない時間がリアルに迫る。
A級MissingLink『限定解除、今は何も語れない』
ジャン・トゥトゥクーで行われたトライアウトを見たとき、これが震災以降を扱う芝居である、とは思わなかった。殊更前面にそのことを打ち出してこないし、一見すると、ストーリーラインがとてもシンプルで、まるでコメディーのようなライト感覚に貫かれた作品だと思ったからだ。今までの土橋さんのカラーとは違う気がした。
だが、これは鹿のシカコの話を中心にして、死者に対する弔いの想いが底を流れる。ここには彼らの無力感がある。それがこの作品のテーマで、それが土橋さんの3・11以降を描くスタンスとなっている。
深読みしていけば、いろんなことが見えてくるのだが、敢えて今はそこを封印して、もっと一般的な次元で、楽にこの作品が見られるように作ってある。この軽さがそうだ。そして、笑える。兄が増殖していくシーンは傑作である。だが、当然それだけではない。
トライアウトから4ヶ月。今回の本公演(完全版)を見て、思ったことは、こんなにも変えなかったのか、という驚きだ。基本線は一切変えることなく、細部を丁寧に作り直すに留めた。震災から1ヶ月で仙台、福島入りをした土橋さんがそこで見たこと、感じたことをベースにして、作ったこの作品は、震災から7ヶ月が経った今も、変わることがない。状況は刻々と移り変わっていくが、あの時感じたものは変わらないからだろう。
三角フラスコの『あと少し待って』と2本並べて見たとき、土橋さんと生田恵さんのお互いの距離の取り方が、彼らの誠実さをしっかり示しており、このコラボレーションの意義をしっかりと伝える。共通テーマである『沈黙』のもと作られたこの2本の中編作品は、今、東日本大震災を描くそのスタートラインとして、明確な指針を示す里程標となる。
3月12日から13日にかけての出来事が描かれる。被災地での状況をピンポイントで切り取る。こういうドキュメンタリー・タッチの芝居がやがては出てくるだろうとは思ったが、今、実際にそれを目撃して感じたのは、このリアルさを演劇として舞台化し演じるには、あまりにまだ生々しいという事実だ。
本当ならこれを大阪に続いて、仙台でも上演するはずだった。しかし、諸般の事情で仙台公演は2012年4月に延期されることになったらしい。劇場の都合からということだが、大阪においてもあまりに生々しくて言葉を失うのだから、これを仙台で今上演するのは厳しいのではないか、と思う。もちろん被災地の現状を知らない自分には現地の心情を理解することは出来ない。東日本大震災から7ヶ月である。仙台を拠点に置く三角フラスコがこの作品を自分たちの町で上演する覚悟を決めて準備してきたわけなのだから、予定通りに行かなかったことは彼らにとってとても心外なことだろう。
ここに描かれるのは被災地の悲惨ではなく、あの日の記録であり、彼らがそれと冷静に向き合い、その日を日常として生きていく姿だ。それ以上でも以下でもない。ここにはひとつのテーマのもと、明確なメッセージはない。頑張って生きよう、とか、そんなこと、言うわけもない。
震災の翌日。地震の爪痕もなまめかしい。ライフラインの復旧もない。ただ、今は静かに状況が落ち着くのを待つばかりだ。自分たちが置かれている状況もわからない。これからどうなるのか、今どうなっているのかも定かではない。そんな中、知りあいのバーを避難所として、ここで過ごす4人の男女の2日間のスケッチである。電気が復旧して喜ぶシーンがある。水を汲みに行き、開いている店へ買い出しに行く。長い行列が出来ている。品数は少ない。そんなスケッチが描かれる。
だが、この芝居のハイライトになるのは、12日の夜、ここで初めて眠りにつくシーンだ。地震の当日は眠れなかったが、その日はほんの少しだけ落ち着き、店の床で毛布にくるまり眠りにつく。でも、くたくただけれど、目が冴えてなかなか眠れない。そんな4人のそれぞれの想いが静かな闇の中で描かれていく。照明はほとんど落として真っ暗な中で芝居が進行する。これといって特別なドラマがあるわけではない。だが、そのなにもない時間がリアルに迫る。
A級MissingLink『限定解除、今は何も語れない』
ジャン・トゥトゥクーで行われたトライアウトを見たとき、これが震災以降を扱う芝居である、とは思わなかった。殊更前面にそのことを打ち出してこないし、一見すると、ストーリーラインがとてもシンプルで、まるでコメディーのようなライト感覚に貫かれた作品だと思ったからだ。今までの土橋さんのカラーとは違う気がした。
だが、これは鹿のシカコの話を中心にして、死者に対する弔いの想いが底を流れる。ここには彼らの無力感がある。それがこの作品のテーマで、それが土橋さんの3・11以降を描くスタンスとなっている。
深読みしていけば、いろんなことが見えてくるのだが、敢えて今はそこを封印して、もっと一般的な次元で、楽にこの作品が見られるように作ってある。この軽さがそうだ。そして、笑える。兄が増殖していくシーンは傑作である。だが、当然それだけではない。
トライアウトから4ヶ月。今回の本公演(完全版)を見て、思ったことは、こんなにも変えなかったのか、という驚きだ。基本線は一切変えることなく、細部を丁寧に作り直すに留めた。震災から1ヶ月で仙台、福島入りをした土橋さんがそこで見たこと、感じたことをベースにして、作ったこの作品は、震災から7ヶ月が経った今も、変わることがない。状況は刻々と移り変わっていくが、あの時感じたものは変わらないからだろう。
三角フラスコの『あと少し待って』と2本並べて見たとき、土橋さんと生田恵さんのお互いの距離の取り方が、彼らの誠実さをしっかり示しており、このコラボレーションの意義をしっかりと伝える。共通テーマである『沈黙』のもと作られたこの2本の中編作品は、今、東日本大震災を描くそのスタートラインとして、明確な指針を示す里程標となる。