「これは、最初から負けいくさだな」と思いつつも、それでも壮大な負けっぷりを見せてくれるものと期待して、劇場に行く。森田芳光監督作品である。単純な負け方はしないはずだ。
30年ほど前にこの映画のオリジナルを見ている。黒沢映画のリバイバルブームのさなか、続々と見続けた。楽しかった。あの頃は若かったし、黒沢明の魅力に夢中になった。滅茶苦茶面白いと思った。しかし、先に『用心棒』や『七人の侍』を既に見ていたから、どうしても続編の哀しさか、これには小粒な映画という印象があった。まぁ、当時は子供だったから、「ハードボイルドな『用心棒』に較べて、こっちはオフビートな笑いで見せていく映画だから、スケールでは叶わないよな」なんて僕は思っていた(はず)。
当時は、三船敏郎が、若侍たちを引っ張っての頭脳戦を繰り広げるこの映画の魅力を、いまいち理解できてなかったのかもしれない。黒沢と三船は大雑把で、でもおおらかな笑いで、豪快に見せる。それを、『用心棒』の迫力には及ばない、と思ったのだ。
森田が、この映画を引き受けたのは、内容がとても自分向けだと理解したからではないか。この素材は、本当はもっと繊細な作りをすべきだ。オリジナルは、いつもダイナミックな黒沢時代劇の中で異色の作品である。
そこで、森田流の『椿三十郎』だが、全体の印象は、とてもマイルドな映画に仕上がっている。だが、三船の大味な芝居を、織田裕二が踏襲しているので、なんとなく居心地はよろしくない。もっと、思い切ってアレンジ出来たなら、森田らしい作品になったはずだ。台本の変更は一切しない、というのも、難しいところだ。確かにその判断は悪くはない。この台本のままでも、充分勝算はあったし、主人公二人は、見事にこの作品世界を引っ張ってくれている。織田は三船と違ってとても彼らしい豪快さ、を見せてくれ好感が持てるし、豊川悦司はこのフィクションの中にしっかり溶け込んで楽しそうに演じている。
だが、周囲の役者たちの見当違いの芝居はどういうことだろうか。7人の若侍たちの大仰な演技には呆れる。(松山ケンイチだけは、ちゃんとしてるが)更には悪役3人組。彼らのリアルとは程遠い芝居が作品世界をぶち壊している。なぜ、彼らにあんな演技をさせたのか、よく解らない。この映画全体を完全な作り物にするつもりなのか?たとえ、そうであろうとも、ああいう芝居はその精緻な作り物の世界すら破壊させる。隠し芸大会ではないのだから。
オリジナルより、20分も長い作品になったのは、テンポよりも、ディテールを重視したからか。たとえ、そうであろうとも、このテンポの悪さは森田らしくない。オリジナルと真っ向勝負するではなく、今この作品を甦らせることで、見せたかったものって何なんだろうか。実はそれが、よく解らないのだ。
エンタティンメントをやりたかったのか。一気に作品世界の中に引き込まれて、息つく間もなく、スクリーンを見つめ続け、気付くともう、ラストだ、終わった後も、「あぁ、面白かった」と興奮が続く、もっと見たかった、と悔しがる、そんな映画を目指したのか。近頃はやりの軽さが身上のエンタメではなく、まさに<娯楽の王道>を行く、そんな映画を作ろうとしたのか。ただ、これでは今の若い世代に受けるかと言われたなら、首を捻らざるえない。
最近は、あまりにテンポが速すぎて、観客まで置いてけぼりを食わされるような映画が多い。見た後疲れてしまう。この映画ののんびりしたタッチは悠々自適で、心地よい。だが、これは今の映画のテンポではない。1本調子になり、終盤、少し退屈するのも、難点だ。
織田裕二は、魅力的な人物像を提示するが、この男が今あるべき、チームリーダーのあり方を実感できたなら、この映画は現代の映画となりえたはずだが、残念ながら、この男はそんなモデルケースにはならない。
この映画には今と通じるものがまるでない。だから、面白いのだが、それだけの映画にしかならない。これでは、やはり負けいくさだろう。森田のねらいはどこにあるのか、伝わらない。この方法で見せたかったものとは、何だったのか。それがわかないから、今リメイクする意義が感じられないし、納得もいかない。
見終えたとき、「なぜこれなのか。」そんな事ばかりが、気になって仕方なかった。書きながらも、やはりよくわからない、というのが今の結論だ。
30年ほど前にこの映画のオリジナルを見ている。黒沢映画のリバイバルブームのさなか、続々と見続けた。楽しかった。あの頃は若かったし、黒沢明の魅力に夢中になった。滅茶苦茶面白いと思った。しかし、先に『用心棒』や『七人の侍』を既に見ていたから、どうしても続編の哀しさか、これには小粒な映画という印象があった。まぁ、当時は子供だったから、「ハードボイルドな『用心棒』に較べて、こっちはオフビートな笑いで見せていく映画だから、スケールでは叶わないよな」なんて僕は思っていた(はず)。
当時は、三船敏郎が、若侍たちを引っ張っての頭脳戦を繰り広げるこの映画の魅力を、いまいち理解できてなかったのかもしれない。黒沢と三船は大雑把で、でもおおらかな笑いで、豪快に見せる。それを、『用心棒』の迫力には及ばない、と思ったのだ。
森田が、この映画を引き受けたのは、内容がとても自分向けだと理解したからではないか。この素材は、本当はもっと繊細な作りをすべきだ。オリジナルは、いつもダイナミックな黒沢時代劇の中で異色の作品である。
そこで、森田流の『椿三十郎』だが、全体の印象は、とてもマイルドな映画に仕上がっている。だが、三船の大味な芝居を、織田裕二が踏襲しているので、なんとなく居心地はよろしくない。もっと、思い切ってアレンジ出来たなら、森田らしい作品になったはずだ。台本の変更は一切しない、というのも、難しいところだ。確かにその判断は悪くはない。この台本のままでも、充分勝算はあったし、主人公二人は、見事にこの作品世界を引っ張ってくれている。織田は三船と違ってとても彼らしい豪快さ、を見せてくれ好感が持てるし、豊川悦司はこのフィクションの中にしっかり溶け込んで楽しそうに演じている。
だが、周囲の役者たちの見当違いの芝居はどういうことだろうか。7人の若侍たちの大仰な演技には呆れる。(松山ケンイチだけは、ちゃんとしてるが)更には悪役3人組。彼らのリアルとは程遠い芝居が作品世界をぶち壊している。なぜ、彼らにあんな演技をさせたのか、よく解らない。この映画全体を完全な作り物にするつもりなのか?たとえ、そうであろうとも、ああいう芝居はその精緻な作り物の世界すら破壊させる。隠し芸大会ではないのだから。
オリジナルより、20分も長い作品になったのは、テンポよりも、ディテールを重視したからか。たとえ、そうであろうとも、このテンポの悪さは森田らしくない。オリジナルと真っ向勝負するではなく、今この作品を甦らせることで、見せたかったものって何なんだろうか。実はそれが、よく解らないのだ。
エンタティンメントをやりたかったのか。一気に作品世界の中に引き込まれて、息つく間もなく、スクリーンを見つめ続け、気付くともう、ラストだ、終わった後も、「あぁ、面白かった」と興奮が続く、もっと見たかった、と悔しがる、そんな映画を目指したのか。近頃はやりの軽さが身上のエンタメではなく、まさに<娯楽の王道>を行く、そんな映画を作ろうとしたのか。ただ、これでは今の若い世代に受けるかと言われたなら、首を捻らざるえない。
最近は、あまりにテンポが速すぎて、観客まで置いてけぼりを食わされるような映画が多い。見た後疲れてしまう。この映画ののんびりしたタッチは悠々自適で、心地よい。だが、これは今の映画のテンポではない。1本調子になり、終盤、少し退屈するのも、難点だ。
織田裕二は、魅力的な人物像を提示するが、この男が今あるべき、チームリーダーのあり方を実感できたなら、この映画は現代の映画となりえたはずだが、残念ながら、この男はそんなモデルケースにはならない。
この映画には今と通じるものがまるでない。だから、面白いのだが、それだけの映画にしかならない。これでは、やはり負けいくさだろう。森田のねらいはどこにあるのか、伝わらない。この方法で見せたかったものとは、何だったのか。それがわかないから、今リメイクする意義が感じられないし、納得もいかない。
見終えたとき、「なぜこれなのか。」そんな事ばかりが、気になって仕方なかった。書きながらも、やはりよくわからない、というのが今の結論だ。