こんな映画が見たかった。終盤の展開は少し残念だけど、そこまでは素晴らしい。そして、あの唐突なラストもいい。叔父さんが入院して、でも、ちゃんと戻ってきて、日常も戻ってくる。だけど、それは単純なハッピーエンドではないことは明らかだ。近い将来叔父さんは死んでいく。あるいは、もっと体の不自由が進行する。その時、彼女1人で面倒を見ることは不可能になる。どこまでが可能で、どこからは不可能なのかの線引きは難しい。
冒頭のほぼ無言のまま一日を最初から最後まで見せるシークエンスに感動した。きっと20分くらいあったのではないか。朝五時半に起きたところから始まり、叔父さんを起こしに行き、服を着させる。朝食を食べて、牛の世話をする。昼食を食べて、牛の世話をする。夕食を食べて、叔父さんとTVを見る。食事のシーンでは必ずTV(それとも、ラジオか? 画像が映らないし、音のする方を彼らは見ないからわからない)からニュースが流れてきている。彼らはそれを見るではなく、聞きながら、食事の時間を過ごす。順を追って淡々と、きっと変わることのない1日が描かれているのだ。起きる場面から寝る場面までを描いたこの冒頭のシークエンスを見たところで、これは傑作だと確信した。
そして、その後には、当然のように、翌日の描写が続く。金曜の買い物も定番で、スーパーに行く。映画はドキュメンタリーのようにそんなふたりの生活を追いかける。でも、ドキュメンタリーなら、そこに何かのメッセージが付与されるところだろう。でも、この映画にはそれがない。しかも、何もないからこんなにも面白いし、緊張させられる。彼女たちにはしゃべることがないし、しゃべる必要もない。だから、ほとんどしゃべらない。映画はお話を展開させたいから、特別でなくともいいから、しゃべるはずだ。というか、映画でなくても、日常の生活の中で会話はある。でも、この映画にはそれすらない。しゃべらないけど、わかりあっている。12年間の積み重ねの先に今日の日がある。
まぁ、残念だがそれだけで終わることはさすがになかった。お話は少しずつ展開していく。
彼女が今も獣医の仕事に興味を抱いていること、教会で出会った男性と付き合うことになること、夢と恋愛という定番だ。そんなありきたりもこの映画にとっては大きなお話の要素だろう。その描き方は、彼女らしく朴訥としていて、でも、時にはユーモラスで、悪くはない。彼女の頑なさが少しずつ解れていく。だが、コペンハーゲンへの2日間だけの旅で起きた事件(叔父が転倒して入院する)を通して彼女は再び心を閉ざす。叔父の入院は彼女のせいではない。たまたま運が悪かっただけだ。だけど、彼女は自分のせいでそうなったと思う。一度そう思うともう彼女は気持ちを変えない。彼女の中で、獣医の夢や恋愛は終わる。そこまでして、自分を犠牲にして介護する必要はない。
叔父さんも彼女のために自立しようと努力する。だけど、彼女はそれに甘えないし、それを受け入れない。頑なすぎてイライラさせられるほどだ。だけど、それが彼女の生き方で、そうして今日まで生きてきた。きっとこれからもそうして生きていく。頑固だ。そんな彼女の姿を見ながら、僕はなんだか深く感動している。こんな生き方だってありなのだ。何が正しくて何が間違いだ、なんて言えない。言わない。自分らしく生きるしかない。この映画から、そう後押しされた気がして、なんだか少し元気にさせられた。
この7年間、母親の介護をしてきて、この1ヶ月、彼女が入院して、面会も出来ず、この先どうなるのか、わからない現状の中で、この映画は心に深く沁みた。特にこの1年、施設に入れるという選択も出来たのに、自分の勝手な思い込みで、一人暮らしをさせたこと。もし、施設に入っていたら、倒れることはなかったかもしれないと、思うと、自宅に拘った彼女の気持ちを汲んだはず、という自分(ここでの自分とは母親ではなく、僕ね)のわがままが悔やまれる。たとえ嫌がっても、あの時、グループホームに入れておけばこんなことにはならなかったのではないか、と。そんなことを考えながらこの映画を見ていたのだ。この映画の主人公の頑なさは今の僕には救いだ。