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映画・演劇のレビュー

村上春樹『1Q84 Book3』

2010-07-07 08:47:17 | その他
 天吾と青豆の2人に、今までは傍役だった牛河も加入して、主人公は3人になった。Book3は、彼ら3人の視点から見た話が交互に語られながら展開していくことになる。従来の2人に牛河の視点が入ることで、ドラマはある種の客観性を持つ。

 天吾と青豆が苦難を乗り越えていかにして出逢えるのか、というお話で引っ張っていく「すれ違いメロドラマ」のスタイルなのだが、今回は今まで以上にドラマらしいドラマがなくなり、より内省的になる。青豆は部屋から1歩も出れないし、天吾も前半は猫の町に行って、父親の病室で本を読んで聞かせるばかりだから、ストーリーが先に進むはずもない。

 青豆は嵐の夜にふかえりの体を通して、天吾の子供を身籠もり、更には彼女のもとに意識不明の天吾の父親がエヌエチケーの集金人として、何度となく足を運ぶ。ストーリーテラーとなるはずの牛河はいつまでたっても青豆の行方を掴めないし、見張っているはずの天吾にすら会えないままだ。いつまでも同じ場所にとどまり続ける。

 Book1,2を読んでから既に1年以上が経っているので、ストーリーをかなり忘れてしまっていたが、前半までを読み終えて、ある程度は思い出すことが出来た。ここからこの作品がどんな結末を迎えていくことになるのか、楽しみだ。

       (中断)

 とうとう読み終えることができた。ゆっくり読んだので、6日間かかった。600ページを6日で読むというのは、とてもわかりやすい作業だ。3日目終了後に書いた上の感想は最後まで変わることはなかった。

 Book3は全く動かないドラマだ。3人の主人公たちは、なかなか出会わない。彼らはこんなにも近くにいるのに、である。ある場所にとどまり続ける。もちろんそれは彼らの本意ではない。でも、しかたないことだ。彼らは我慢強く待つ。時はやがて満ちる。そして、彼らは出逢う。

 20年も待ち続けてきたのだから、それが数ヶ月先になったとしても何ら問題はない。ただし、困るのは一瞬のニアミスで、出逢えなくなることだ。青豆のお腹の中に宿った子供が何もので、1Q84年から、あるいは、猫の町から、無事に脱出した2人がその後どうなるかなんてまるでわからない。人生の先なんて誰にも見えないのと同じだ。このとても小さなお話がどうしてこんなにもたくさんの人たちから支持されるのかよくは解らない。社会現象になるほどのこととは村上春樹自身も思いもしなかったことだろう。

 リトルピープルが何もので、牛河が消えて亡くなるまでに空気さなぎが作られることで、この世界に何が起こるのか、とか、意識不明の天吾の父は何を言いたくて、牛河や、青豆のところに行ったのか、とか。いろんなことが、謎のまま、残されていく。しかも、もともとこの世界は謎ばかりだ。ことさらこの小説に整合性を求めてもあまり意味はない。

 ただはっきり言えることは、青豆は天吾の手をしっかり握りしめた、ということだ。その事実は消せない。これはハッピーエンドなのである。とりあえず1984年が終わるまでは。

 1985年以降の25年間で僕等の世界はどう変わってしまったのだろうか。少なくとも彼らは今55歳であり、彼らの子供は今年25歳になる。


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