未来人を描いても、宇宙人を描いても、はせワールドはまるで動じない。ふつうならこういう設定をやると、ただのバカバカしい芝居になるはずだ。その安っぽさに苦笑させられることになるのは必至なのだが、それをはせさんがやると、なんだかただの「ふつう」になる。この芝居の他の登場人物たちと同じように認めてしまう。
はせさんはどこまでも真面目にしている。その結果、それに笑わされることになる。真面目だから笑える。真面目にしているので笑わされる。はせさんは特別なんの仕掛けもしない。そのまんまで見せていく。なのにおもしろい。というか、だから面白いのである。未来人はこの日常生活の中に地味に溶け込む。
あるシチュエーションをきちんと見せることで1本の芝居となる。彼らとの会話の妙を楽しむ。(もちろん彼ら、って未来人たちのことだ。今回は宇宙人は残念ながら登場しない。前回のように河童も出ない。)そんなバカな、と思いつつ、そんなことかも、と納得し、だらだらしたやり取りをただ見ている。誰が未来人で、誰がそうでないか、なんてこともだんだんどうでもよくなるくらいに、特別なお話はない。
でも、このさりげない設定は実によく考えられてある。カラオケボックスだった場所がなぜか、住居となっていて、各部屋でそれぞれ独居者が生活している。こういうルームシェアなら、行定勲監督が『パレード』で描いているが、この芝居はあの映画のような怖さは描かない。ただ集団生活のルールを介してドラマが展開していくところは少し似ている。でもはせさんは彼らの生活を淡々と見せるだけだ。
これは一応SFなのだが、殊更そこは強調されない。設定の問題でしかない。タイムトラベルのルールよりも、この共同生活のルールのほうが、大事で、そこを通して芝居は展開する。なんとも不思議なドラマだ。まぁそんなところがはせさんのドラマ作りなのだが。
これからの家族の在り方についてのはせさんの視点が、ここからは垣間見える。他人同士が共同体としての家族を作る。血のつながりが、絶対の条件だったはずの家族制度は崩壊し、でも、シングルでは生きられない人間たちが新たな家族制度を作り上げる。そこではプライベートは極力排除される。だが、お互いに干渉しないゆるやかな関係性が保たれる。だが、そこではルールが大切にされる。でも、必ずしもそれを信じているという訳ではないのだが。
はせさんはどこまでも真面目にしている。その結果、それに笑わされることになる。真面目だから笑える。真面目にしているので笑わされる。はせさんは特別なんの仕掛けもしない。そのまんまで見せていく。なのにおもしろい。というか、だから面白いのである。未来人はこの日常生活の中に地味に溶け込む。
あるシチュエーションをきちんと見せることで1本の芝居となる。彼らとの会話の妙を楽しむ。(もちろん彼ら、って未来人たちのことだ。今回は宇宙人は残念ながら登場しない。前回のように河童も出ない。)そんなバカな、と思いつつ、そんなことかも、と納得し、だらだらしたやり取りをただ見ている。誰が未来人で、誰がそうでないか、なんてこともだんだんどうでもよくなるくらいに、特別なお話はない。
でも、このさりげない設定は実によく考えられてある。カラオケボックスだった場所がなぜか、住居となっていて、各部屋でそれぞれ独居者が生活している。こういうルームシェアなら、行定勲監督が『パレード』で描いているが、この芝居はあの映画のような怖さは描かない。ただ集団生活のルールを介してドラマが展開していくところは少し似ている。でもはせさんは彼らの生活を淡々と見せるだけだ。
これは一応SFなのだが、殊更そこは強調されない。設定の問題でしかない。タイムトラベルのルールよりも、この共同生活のルールのほうが、大事で、そこを通して芝居は展開する。なんとも不思議なドラマだ。まぁそんなところがはせさんのドラマ作りなのだが。
これからの家族の在り方についてのはせさんの視点が、ここからは垣間見える。他人同士が共同体としての家族を作る。血のつながりが、絶対の条件だったはずの家族制度は崩壊し、でも、シングルでは生きられない人間たちが新たな家族制度を作り上げる。そこではプライベートは極力排除される。だが、お互いに干渉しないゆるやかな関係性が保たれる。だが、そこではルールが大切にされる。でも、必ずしもそれを信じているという訳ではないのだが。