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映画・演劇のレビュー

コキカル『シュレーディンガーの女』

2012-08-08 23:42:10 | 演劇
 演劇というよりもこれはパフォーマンスだ。作、演出の桐子カヲルさんはエッセイのような感じです、と言う。お話で見せるのではなく、おしゃべりや、朗読、ダンス、芝居のカタチを借りて、自分の思うさまざまなことをつらつらと展開して見せる。チラシには「演劇のカタチを引用した「女子会」にほかならないのです。」とある。言い得て妙。コキカルの初めての長編ライブ作品。1時間ほどの長さはとても心地よい。

 6人の女たちが眠っている。まるで死んでいるようにも見える。そこには深い意味はない。始まりの情景であり、これはちょっとした風景なのだ。ここで、そこに死のイメージを明白にさせると、もっと作品世界が広がるような気もしたのだが、桐子さんはそこまではしない。もう少し軽やかなものを見せるのだ。漠然と「女」というものをテーマにする。でも大仰に女性問題と取り組むとか、いうのではない。そこが物足りないという気もするが、作者の主張をごり押しするではなく、さまざまな要素をコラージュして、女ってなんだろう、と考えてみる。そのきっかけになればいい、というのが彼女の姿勢なのだろう。

 さて、作品は最初に提示した6人が眠る、というひとつの風景から始まる。赤青黄色をイメージした3人の女たち(信号機みたいだね、と言うと、光の3原色です、と言われた。確かにそうだ。ということは赤青黄色ではなく、赤青緑だったのか!)の取りとめもないおしゃべりと、黒と白の女によるパフォーマンス。ひとつは女の日常を描く部分。もうひとつは出産を見せる部分を担う。象徴的というには、あまりに明確な2つのテーマとともに演じられる。そこに朗読する女(いろんな刺激的な文章が引用されてある)のエピソードが介在する。この3つが交錯して、作品はひとつの形を作る。

 それにしても、ここに登場する女たちは、どこに行こうとするのか。そこが明確にされたならもっと面白くなったのに、少し残念だ。桐子カヲルさんの自由奔放なイメージの飛躍が、私たち女って何だろう、という素朴な疑問を示す。そして、ここに提示されたイメージの世界を通して、みんなでそのことを考える機会を指し示すこと、それはこの作品の目的だ。だから、これは彼女が言うようにちょっとした「女子会」なのだろう。ドリンク片手に(芝居は1ドリンク付き)肩肘張らず、気楽に見るのがいい。




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