「平成の終わり、令和の始まり」という節目だからこそ、こういう時代の移り変わりの瞬間をとらえた作品に取り組むことにしたのだろう。慶応3年から4年、明治元年へと変わる瞬間をクライマックスにして見せる。倒幕、尊王攘夷に揺れる京都を舞台にしたドラマは枚挙にいとまはない。だが、竜馬や新選組を中心に据えるのではなく、中岡慎太郎は出てくるけど、お話の中心はあくまでも庶民の側にあるというのが真紅組らしい。しかも、人間ではなく、猫である。中心となるのは猫(や化け猫まで登場する!)であり、彼女たちを飼う志士たちとの交流が描かれる。
発想は面白いのだが、その展開させ方が少し難ありだ。視点が定まらないから芝居自体はモドカシイもどかしい。猫たちの目から見た人間世界ではなく、幕末の動乱のさなか中岡慎太郎のもとに集った土佐藩士たちにシフトする。といっても、彼らが何をするわけでもない。ストーリーは舞台の外側で進行している。大政奉還、明治維新という大きな時代のうねりの中で、彼らが何を見、何を感じたのかは描かれない。ましてや、彼女たち(猫たち)のそれは、もっと曖昧だ。時代に翻弄される庶民の哀歓を彼らを通して描くのなら、男たち(志士)と女たち(猫)という中心にした視座を歴史とどう対峙させるか、そこをもっと明確にしなくては、お話は弾まない。時代の転換期を庶民の視点から描くというアイデアは悪くないし、そこに男と女の違いも盛り込んであるのだから、狙いは定まる。だが、彼らの姿をもう少しくっきりと描きこんで欲しかった。ただ流されるだけではなく、どういう抵抗を試みたか。そこが明確にされたなら、「ええじゃないか」騒動にも意味ができる。
だが、これではダメだ。ラストの「ええじゃないか」に紛れての脱出劇にもドキドキさせられないし、これで終わりなのかと思うとなんだか消化不良だし、ちょっと残念だった。
だが、そんなふうに思わされたところで、幕を閉じるのではなく、なんといきなりの怒濤の展開が待ち受ける。まさかの、大歌謡ショーの始まりなのだ。これには圧倒された。明治から平成までの、そして令和へと、時代の流れを一気に見せていく。歌と踊りで綴る一大パフォーマンスだ。この芝居は実はこれが見せたかったのかと思わせるくらいの迫力である。これは面白いし、確かに驚かされた。だけど、それってなんだか全体のバランスをちょっと崩しているようにも思えた。そう来るのなら、お話自身にも、慶応と平成をリンクさせるような展開が欲しくなる。あれでは唐突すぎる。
余談だが、後で聞いた話では、この歌謡ショーの部分は、演出の諏訪誠が追加してアレンジしたらしい。阿部さんの台本にはなかったそうだ。確かに、そんな感じだった。だけど、このアイデアを全体の中に上手くなじませたならば、これは思いがけない芝居になる可能性もあった気がする。なんだか悔しい。