ようやく見ることができた。何より早く見たかったのに、いつまでも見れないまま今日と言う日を迎えた。待ちに待った久々のデビット・リンチ最新作である。
まだ、十代だった頃、大学の帰りにいつものように、河原町周辺で映画を見た。あの頃は毎週1度は一乗寺の京一会館に行き、3本立(ポルノの時は、なんと4本立だった)を見て、週に2,3度はロードショーや名画座に入って過ごしていた。大学に行っていたというよりも、映画館に行っていたというほうが、正しいのではないか、と思う。18歳から22歳までの4年間、規則正しく週に5回は映画に行き、年間300本くらいは見ていたはずである。
今、MOVIX京都がある場所は松竹座を中心にたくさんの映画館がひしめいていた。そこで、デビット・リンチの『イレイザー・ヘッド』とクロネンバーグの『スキャナーズ』の2本立ロードショーに出会ってしまったのだ。これが2人の映画の日本上陸第1作だったのではないか。(リンチは『エレファント・マン』が先行したかもしれないし、クロネンバーグは『ラビット』が既に公開されていたかもしれないが。)
この2本を同時に見てしまった、という驚きを想像してもらいたい。ほぼ何の予備知識もなく同時体験してしまったのである。腰が抜けるか、と思った。土曜の午後、なんとなく入った劇場で『出会ってしまった』としか言いようがない。そんな体験だった。あの興奮は生涯忘れることはない。
あれから、4半世紀以上が過ぎていった。正確に言うと30年近くになる。今年リンチが長編デビューから30年になるらしい。
この2人は今でも僕にとって重要な作家であり続ける。その後リンチは『ツイン・ピークス』でブレイクしたし、クロネンバーグは『裸のランチ』以降アートフィルムの巨匠になってしまったりしても、変わることはない。
相変わらず、すぐ昔話になってしまうのが、最近の僕の悪い癖だが、今更ながらデビット・リンチのあくなき探究心に触れたとき、ここまでの長い歴史を振り返らざる得ない気分になったのだ。
『インランド・エンパイア』というプライベート・フィルムを語るためにはあの『イレイザー・ヘッド』の記憶を呼び戻さなくては不可能なのだ。これを彼の30年の集大成だなんて、僕は一切思わない。これはリンチにとって汚点でしかない不細工な映画ではないか、とすら思う。
ここまで全体の構成を無視して、好き勝手なイメージを羅列した映画を、深夜(もう既にレイトショー上映しかされてなかった)に3時間に亘って見せられた観客は、きっと腹を立てるべきなのだ。こんなものを有難がって鑑賞して、「難解な映画だった」としたり顔で語り合っても仕方ない。
リンチは最初から映画としてのバランスなんか考えもしていないし、夢の論理や整合性なんて無視してる。最初の顔にぼかしの入ったシーンからそうだし、その後のウサギ人間たちの部屋のシーンを見た時、嫌な予感はしていたが、それはローラ・ダーンの下品でエキセントリックな演技が、全開していくに至って確信した。
リンチはこの映画を作りながら自分の中にあるイメージを完全に破壊しようとしている。リンチらしさなんていう完成されたものを期待通りに見せ続けることによって、従来のイメージを内側から完璧に壊してしまうという暴挙に出た。
この悪夢の3時間は、どこかに至るための旅ではなく、混沌を混沌のまま投げ出すことで、全てを破壊し尽すための3時間である。フイルム撮りを放棄して、ペラペラのビデオ撮りにしたことも含めて映画というものへの冒涜にすらなりかねないことを平気でする。
悪夢の連鎖という意味ではいつも通りのリンチ・ワールドなのだが、この映画を彼の頂点である『ブルーベルベット』と比較してみればいい。あの完璧な映画の美しいフォルムの残滓すらこの映画にはない。
『ロスト・ハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』という従来のイメージをなぞった映画を連発した後、6年の沈黙を破り、このぶっ壊れた映画を僕たちに突きつけてきたリンチは、この後さらなる新たなステージに挑むことだろう。
僕に言わせると、この映画は彼の作品群の中で一際別の意味での輝きを極めた『砂の惑星』を思い出させる。この2本の壊れ方はよく似ていると思うのだが、いかがなものであろうか。
まだ、十代だった頃、大学の帰りにいつものように、河原町周辺で映画を見た。あの頃は毎週1度は一乗寺の京一会館に行き、3本立(ポルノの時は、なんと4本立だった)を見て、週に2,3度はロードショーや名画座に入って過ごしていた。大学に行っていたというよりも、映画館に行っていたというほうが、正しいのではないか、と思う。18歳から22歳までの4年間、規則正しく週に5回は映画に行き、年間300本くらいは見ていたはずである。
今、MOVIX京都がある場所は松竹座を中心にたくさんの映画館がひしめいていた。そこで、デビット・リンチの『イレイザー・ヘッド』とクロネンバーグの『スキャナーズ』の2本立ロードショーに出会ってしまったのだ。これが2人の映画の日本上陸第1作だったのではないか。(リンチは『エレファント・マン』が先行したかもしれないし、クロネンバーグは『ラビット』が既に公開されていたかもしれないが。)
この2本を同時に見てしまった、という驚きを想像してもらいたい。ほぼ何の予備知識もなく同時体験してしまったのである。腰が抜けるか、と思った。土曜の午後、なんとなく入った劇場で『出会ってしまった』としか言いようがない。そんな体験だった。あの興奮は生涯忘れることはない。
あれから、4半世紀以上が過ぎていった。正確に言うと30年近くになる。今年リンチが長編デビューから30年になるらしい。
この2人は今でも僕にとって重要な作家であり続ける。その後リンチは『ツイン・ピークス』でブレイクしたし、クロネンバーグは『裸のランチ』以降アートフィルムの巨匠になってしまったりしても、変わることはない。
相変わらず、すぐ昔話になってしまうのが、最近の僕の悪い癖だが、今更ながらデビット・リンチのあくなき探究心に触れたとき、ここまでの長い歴史を振り返らざる得ない気分になったのだ。
『インランド・エンパイア』というプライベート・フィルムを語るためにはあの『イレイザー・ヘッド』の記憶を呼び戻さなくては不可能なのだ。これを彼の30年の集大成だなんて、僕は一切思わない。これはリンチにとって汚点でしかない不細工な映画ではないか、とすら思う。
ここまで全体の構成を無視して、好き勝手なイメージを羅列した映画を、深夜(もう既にレイトショー上映しかされてなかった)に3時間に亘って見せられた観客は、きっと腹を立てるべきなのだ。こんなものを有難がって鑑賞して、「難解な映画だった」としたり顔で語り合っても仕方ない。
リンチは最初から映画としてのバランスなんか考えもしていないし、夢の論理や整合性なんて無視してる。最初の顔にぼかしの入ったシーンからそうだし、その後のウサギ人間たちの部屋のシーンを見た時、嫌な予感はしていたが、それはローラ・ダーンの下品でエキセントリックな演技が、全開していくに至って確信した。
リンチはこの映画を作りながら自分の中にあるイメージを完全に破壊しようとしている。リンチらしさなんていう完成されたものを期待通りに見せ続けることによって、従来のイメージを内側から完璧に壊してしまうという暴挙に出た。
この悪夢の3時間は、どこかに至るための旅ではなく、混沌を混沌のまま投げ出すことで、全てを破壊し尽すための3時間である。フイルム撮りを放棄して、ペラペラのビデオ撮りにしたことも含めて映画というものへの冒涜にすらなりかねないことを平気でする。
悪夢の連鎖という意味ではいつも通りのリンチ・ワールドなのだが、この映画を彼の頂点である『ブルーベルベット』と比較してみればいい。あの完璧な映画の美しいフォルムの残滓すらこの映画にはない。
『ロスト・ハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』という従来のイメージをなぞった映画を連発した後、6年の沈黙を破り、このぶっ壊れた映画を僕たちに突きつけてきたリンチは、この後さらなる新たなステージに挑むことだろう。
僕に言わせると、この映画は彼の作品群の中で一際別の意味での輝きを極めた『砂の惑星』を思い出させる。この2本の壊れ方はよく似ていると思うのだが、いかがなものであろうか。