今なぜ熱海なのか。一昔前なら安易に熱海を上演しただろうが、今、熱海をするのはそうとうの覚悟が必要だ。でなくては、やけどをする。70年代の熱気は、もうとうの昔に沈静化した。つかの時代ではない。21世紀に入って、つかこうへいのテンションの高さは受け入れられなくなっている。そんな時代にあえて、つかを、しかも、この『売春捜査官』をするのは、無謀だ。
役者がどれだけ熱くなろうとも観客は醒めているから、空回りする。出来上がったものは目も当てられないものとなる可能性は大。作り手の熱意は伝わらない。つか芝居の凄まじいスピードは、滑舌の悪い役者では表現できない。何を言ってるのやらわけがわからない。たとえきちんとしゃべれても意味不明。理屈で理解しようとしても不可能。では90年代まで、つか芝居が一世を風靡したのはなぜか。そこには過剰な熱気と勢いがあった。それだけですべてを圧倒した。ちんけな痴情のもつれの殺人を、立派な犯罪へと仕立て上げるため、ありとあらゆる手を使う情熱が感動につながる。それが熱海であり、つか芝居だった。ただ、今回のヴァージョンはオリジナルの意匠が損なわれている。この空疎な台本を使い、何を見せようとしたのか。
主人公の木村伝兵衛を演じる古川智子がとてもカッコイイ。今回は新人お披露目公演のはずなのに、彼女のオンステージになっている。(ちなみに、新人とは本多信男らしい!)要するにそこだったのか、とも思う。
演出は幾分テンポを落としてわかりやすい芝居を心掛けたようだが、そういう配慮は不要だ。この芝居は観客を唖然とさせるくらいに無茶苦茶な芝居でよい。作り手の優しさが作品の力にはならない。とことんバカバカしくて無意味。わけのわからないことをわめき散らしていく不毛なエネルギーが伝わればいい。今、これを見て感動する人は居ない。それならとことんわがままに観客を煙に巻けばいい。それが正しい。だが、その先には確かな感動が欲しい。それはこの芝居から伝わってくる伝兵衛の危うさであり、弱さだろう。彼女が女であることが、この作品の要だ。強い女がどういうふうにそこに立ち、その足場がどれだけ危ういものか。そこが伝わればいい。