とても変な映画だ。まるで予備知識なく見た。マンガの映画化であることと、怪獣が出て来るらしいことくらいだ。SFチックなしょぼい映画ではないか、と思うけど、なんとなく心魅かれた。で、かなり驚く。2009年の作品だ。
何を伝えたいのかが定かではない。なのに、とても気になる。曖昧なままストーリーが流れていき、謎は謎のまま、投げ出されていき、そして結論は定かではない状態でいきなり終わる。放り出された気分だった。まさかここで終わらないだろう、というところでいきなりクレジットが流れ出す。
1970年、瀬戸内海を望む海辺の町。世の中が大きく動いていく、そんな予感を抱かせた時代。でも、この田舎町では、全くなんの刺激もなく、ただぼんやり時間だけが過ぎていく。本州側ではなく、愛媛県側だから、余計に隔離されたようになる。高校3年生の主人公、蜂屋は、卒業するとバイト先のしょぼいテーマパークのマリンパークで働かないか、と誘われている。進学する気はない。この町に埋もれていくようだ。そして、卒業後は流されるようにマリンパークで働く。
そんな彼と偶然出会う中学生の少年、ひろし。彼がもうひとりの主人公だ。彼は、学校で少し虐められている。柔道部をやめて、地元の小学生3人とつるむ。彼らと探偵団を結成している。年下のほうが、気が合う。面倒見がいいから慕われている。
本当なら全く関わりあうはずもないこの2人が、一瞬クロスして、すぐに、別れていく。蜂屋は、ひろしにだけ秘密であるデメキングの存在を教える。やがて、蜂屋はこの町を去っていく。ひろしは彼に教えられた場所へ行くことにする。「デメキングの秘密」の隠し場所だ。ひろしと3人の小学生たちの4人、彼ら探偵団は、自転車をこいでほんのちょっとした旅に出る。この部分はまるで『スタンド・バイ・ミー』みたいだ。デメキングを探す旅から帰った彼が、デメキングがこの国を破壊する夢を見るシーンがかなり長い。最初は、このシーンが事実で、この映画は怪獣映画だったのか、と思うほどだ。延々と続く破壊と殺戮のシーンの後、再びもとの日常が戻ってくる。この落差がすごい。なんら変わることにない日常、そして彼は中学生から高校生になる。子分のように慕っていた小学生も坊主頭の中学生になっている。ティム・バートンの『ダークシャドウ』と同じ1972年である。
1970年と1972年というほとんど隣接した2つの時間を描きながら、そこには圧倒的な断絶がある。その落差は痛ましい。さらには彼らが夢見る「平成30年」という未来の時間。デメキングが宇宙から来襲し日本を破壊する(それが「平成23年」ではなくてよかった!)はずの未来だ。そのとき、彼らはどんな大人になっているのだろうか。というか、もう充分リタイアする年齢になっているはずだ。そのとき、世界はどうなっているのか。
蜂屋は安保の時代に東京に出て、そこで何を見たのか。映画は平成30年を描かないだけでなく、1972年の状況すら定かにはしない。彼の東京での日々はほとんど描かない。東京でなんとなくだらだら生きて、親からはなじられ、それでも帰郷はしない。
その頃、高校生になったもうひとりの主人公であるひろしは、デメキングのことを小説に書いて、芥川賞を夢見ている。家業である豆腐屋を継いで、一生この町から出ることなく、過ごすつもりだった。だが、近所に進出したスーパーの存在は両親の店を青息吐息にする。自分が大人になる頃には豆腐屋はなくなっているかも知れない。夢を抱かず、ただここに埋もれるはずだったのに、それすら叶わないかもしれない。
日本の片田舎の町を舞台にして、万博が開かれたあの頃の鬱屈と、その先にある未来が描かれる。これは誰もが知らない隠された傑作映画である。(まぁ、知ってる人はちゃんと知ってるし、僕がたまたま、今日知っただけなのだが)
何を伝えたいのかが定かではない。なのに、とても気になる。曖昧なままストーリーが流れていき、謎は謎のまま、投げ出されていき、そして結論は定かではない状態でいきなり終わる。放り出された気分だった。まさかここで終わらないだろう、というところでいきなりクレジットが流れ出す。
1970年、瀬戸内海を望む海辺の町。世の中が大きく動いていく、そんな予感を抱かせた時代。でも、この田舎町では、全くなんの刺激もなく、ただぼんやり時間だけが過ぎていく。本州側ではなく、愛媛県側だから、余計に隔離されたようになる。高校3年生の主人公、蜂屋は、卒業するとバイト先のしょぼいテーマパークのマリンパークで働かないか、と誘われている。進学する気はない。この町に埋もれていくようだ。そして、卒業後は流されるようにマリンパークで働く。
そんな彼と偶然出会う中学生の少年、ひろし。彼がもうひとりの主人公だ。彼は、学校で少し虐められている。柔道部をやめて、地元の小学生3人とつるむ。彼らと探偵団を結成している。年下のほうが、気が合う。面倒見がいいから慕われている。
本当なら全く関わりあうはずもないこの2人が、一瞬クロスして、すぐに、別れていく。蜂屋は、ひろしにだけ秘密であるデメキングの存在を教える。やがて、蜂屋はこの町を去っていく。ひろしは彼に教えられた場所へ行くことにする。「デメキングの秘密」の隠し場所だ。ひろしと3人の小学生たちの4人、彼ら探偵団は、自転車をこいでほんのちょっとした旅に出る。この部分はまるで『スタンド・バイ・ミー』みたいだ。デメキングを探す旅から帰った彼が、デメキングがこの国を破壊する夢を見るシーンがかなり長い。最初は、このシーンが事実で、この映画は怪獣映画だったのか、と思うほどだ。延々と続く破壊と殺戮のシーンの後、再びもとの日常が戻ってくる。この落差がすごい。なんら変わることにない日常、そして彼は中学生から高校生になる。子分のように慕っていた小学生も坊主頭の中学生になっている。ティム・バートンの『ダークシャドウ』と同じ1972年である。
1970年と1972年というほとんど隣接した2つの時間を描きながら、そこには圧倒的な断絶がある。その落差は痛ましい。さらには彼らが夢見る「平成30年」という未来の時間。デメキングが宇宙から来襲し日本を破壊する(それが「平成23年」ではなくてよかった!)はずの未来だ。そのとき、彼らはどんな大人になっているのだろうか。というか、もう充分リタイアする年齢になっているはずだ。そのとき、世界はどうなっているのか。
蜂屋は安保の時代に東京に出て、そこで何を見たのか。映画は平成30年を描かないだけでなく、1972年の状況すら定かにはしない。彼の東京での日々はほとんど描かない。東京でなんとなくだらだら生きて、親からはなじられ、それでも帰郷はしない。
その頃、高校生になったもうひとりの主人公であるひろしは、デメキングのことを小説に書いて、芥川賞を夢見ている。家業である豆腐屋を継いで、一生この町から出ることなく、過ごすつもりだった。だが、近所に進出したスーパーの存在は両親の店を青息吐息にする。自分が大人になる頃には豆腐屋はなくなっているかも知れない。夢を抱かず、ただここに埋もれるはずだったのに、それすら叶わないかもしれない。
日本の片田舎の町を舞台にして、万博が開かれたあの頃の鬱屈と、その先にある未来が描かれる。これは誰もが知らない隠された傑作映画である。(まぁ、知ってる人はちゃんと知ってるし、僕がたまたま、今日知っただけなのだが)