作者であるウニー・ルコント監督の自伝的作品だ。彼女の実体験がモデルになっているのだろう。孤児院に預けられ、やがてフランス人の里親に引き取られるまでが描かれる。とても個人的で、小さな話だ。父親の記憶もない。そこでの日々もきっと虚ろなものだ。9歳の少女の孤独と不安。それだけがくっきりと胸に刻まれてある。そのかすかな記憶を頼りにして、紡ぎあげたドラマは、そのあまりに繊細で、傷つきやすい心情がひしひしと観客である私たちの心に伝わってくる。こんなにも痛い映画はない。キム・セロンは、昨年『アジョシ』で、見ているが、この映画がまずあって、その後で『アジョシ』にキャスティングされたのだろう。ただ、彼女を見つめるだけでいい。それですべてが見えてくる。
少女のどうしようもない淋しさに寄り添うのではない。ただ、静かにそれをみつめるだけだ。感情移入なんてできない。ただ、見つめる。それだけで精一杯だ。最初は拒絶、やがて順応、徐々に自分の居場所を確保。でも、それって幸せではない。ただ、生きるためだ。拒絶したまま生きる術はない。だから、順応する。仕方のないことなのだ。慣れてきても馴染むことはない。死んでしまう小鳥のように、自分もここで死んで行くのだろう、と思う。そのほうが幸せではないか、と思う。だから彼女は小鳥を埋めたように、自分の体も土の中に埋めてしまう。もちろん死ぬことはできない。
親友が出来る。だが、心を許したわけではない。どうせ他人だし、彼女はいい家庭に貰われていくことのためなら、どんなことでもする。そんな媚びるような行為はしたくはない。自分はここでずっと父が迎えに来てくれる日を待ち続けたい、と思う。自分には父がいるから、他の子とは違う。そんなささやかなプライドがある。それを心の拠り所にして生きる。そんなことも、なんだか傷ましい。
75年の韓国ソウルの郊外、寒々とした風景が背景となる。この荒涼とした大地に隔離されたようにひっそりとたたずむこの孤児院を舞台にして、ここからほとんど出ることもない。集団生活を送る子どもたちの姿を描きながら、あの日見たものをもう一度見つめ直す作業を通して、監督であるウニー・ルコントは自分の原風景をここに再現し、自分がどこからやってきてどこへと行くのかを見る。
少女のどうしようもない淋しさに寄り添うのではない。ただ、静かにそれをみつめるだけだ。感情移入なんてできない。ただ、見つめる。それだけで精一杯だ。最初は拒絶、やがて順応、徐々に自分の居場所を確保。でも、それって幸せではない。ただ、生きるためだ。拒絶したまま生きる術はない。だから、順応する。仕方のないことなのだ。慣れてきても馴染むことはない。死んでしまう小鳥のように、自分もここで死んで行くのだろう、と思う。そのほうが幸せではないか、と思う。だから彼女は小鳥を埋めたように、自分の体も土の中に埋めてしまう。もちろん死ぬことはできない。
親友が出来る。だが、心を許したわけではない。どうせ他人だし、彼女はいい家庭に貰われていくことのためなら、どんなことでもする。そんな媚びるような行為はしたくはない。自分はここでずっと父が迎えに来てくれる日を待ち続けたい、と思う。自分には父がいるから、他の子とは違う。そんなささやかなプライドがある。それを心の拠り所にして生きる。そんなことも、なんだか傷ましい。
75年の韓国ソウルの郊外、寒々とした風景が背景となる。この荒涼とした大地に隔離されたようにひっそりとたたずむこの孤児院を舞台にして、ここからほとんど出ることもない。集団生活を送る子どもたちの姿を描きながら、あの日見たものをもう一度見つめ直す作業を通して、監督であるウニー・ルコントは自分の原風景をここに再現し、自分がどこからやってきてどこへと行くのかを見る。