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映画・演劇のレビュー

角田光代『かなたの子』

2012-03-24 23:18:42 | その他
 この短編集は怖い。もちろんこれはホラーではない。死んでしまった子供たちの話だ。8つの短編はそれぞれ不思議な出来事を描くのだが、それは仕方ないことだ、と思わされる。土俗的な風習のようなものが、それぞれのお話のベースにはある。時代は今ではなく、ほんの少し昔。まだ日本の産業が農耕を主とする時代の話だろう。明治とか、大正とか、昭和の前半の頃。戦争の前の話だ。もちろんどこにもそんなことは書かれていない。漠然とした昔話の世界だと、思えばいい。中にはあきらかに現代に近い東京を舞台にしているものも、ある。というか、そんな話も多々ある。もちろんその場合も「東京」なんて一切言わない。場所や時間の設定はない。だが、そんなものすら含めて全体のテイストはいずれも呪術的で神秘的な物語の要素を孕み持つ。

これは彼方に行ってしまった子供たちへの想いを、それぞれの立場から綴る作品集だ。それは単純に死んでしまうということではない。さまざまなケースがここには描かれてある。子供は自分の分身でもある。だが、それは当然、自分ではない。そんなあたりまえのことを、改めて認識する。ここにいる自分が、ここにはいない子供をどう想い、どう関わるのか。それは「子供」というくくりでは収まらない。

 ある時は、妻への違和感として描かれる。その時、「かなたの子」は妻のことで、彼女が自分のもとを離れて「かなたの子」となる瞬間が描かれる。引越した古い家で、押入れのなかに階段があり、その先のほの暗いところには物置がある。そこで、妻はひとり、つぶやいている。誰と話しているのか。何を唱えているのか。ここに描かれる冥界は、日常と地続きで、ある。おなかの中の子とともに、生まれる前に死んでしまった前の子に会いに行く話も、そこにある死者との出会いの場所は、日常の延長線にある。そこには電車に(汽車?)乗れば、行ける。自分と同じような事情で子供に会いにいく人たちが、ここには乗り合わせている。生きたまま、埋められて、ミイラになり、村人を救う僧や、廃墟に棄ててあったスーツケースに入って、そこから出られなくなった少年の話もある。

 いずれも今ではなく、ほんの少し昔。明確な時代設定は為されていないが、ここに描かれる今ではない「いつか」。そんな記憶の片隅にある懐かしい、でも恐ろしい風景が描かれる。今ある自分が犯した過去の罪。それが彼、彼女たちを苦しめる。

 昔棄てた女が、今も、自分のことを想い続ける。そのことが、彼女を狂わせる。彼を困惑させる。責任の所在はどこにあるのかを追及するのではない。人の心の中には忘れることの出来ない闇が巣くっていて、人はその闇と向き合い、生きるしかない。そこにあるのは後悔ではない。それは、生きている限りずっと今も続くものだ。

 終わることのないものだ。でも、それは不幸なことではない。生きるということがそんなものだからだ。ここに描かれる子供たちは怨んではいない。ただ哀しんでいる。それは生まれなかったことや、生まれてしまったこと、死んでしまったこと、そのすべてだ。この短編集に収められた8つの話が互いに呼応して作り上げる世界は、いままでの角田光代とは一味違う。まるで夏目漱石の『夢十夜』を読んだ時のような、感触が残る傑作である。

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