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映画・演劇のレビュー

日英現代戯曲交流プロジェクト『いつか、すべて消えてなくなる』

2008-02-20 00:28:53 | 演劇
 この素敵なタイトルに、まず心惹かれた。それだけでこの作品を好きになってしまったくらいだ。見る前からこれは僕が好きな作品だ、ということがはっきりとわかる。ときどきそんな時があるのだ。

 そして、予想は的中する。見終えて、ほんとうにいい作品だと思った。だから、出来る事ならこの戯曲(キャサリン・グロヴナー)をドラマ・リーディングではなく、きちんと演劇として見せてもらいたかった。そんなふうに思わされた。

 リーディングであることの限界を感じ、それが残念だったのだ。ここまで限りなく芝居に近い形にしてしまったため、余計にこの作品の欠陥が明白になる。余白を見せる演出がなされなくては、この戯曲の面白さは伝えきれない。しかし、それはリーディングというスタイルでは不可能だ。ト書きまで読んでしまうという約束のもと、舞台では役者たちはト書きに書かれたことを、演じて見せたりもする。その結果、演技とト書きがダブったりもすることとなる。

 聞かせることで見せる、というアプローチが出来たならいいのだが、限りなく見せるという方向に傾きすぎたため、中途半端になる。演出の田辺剛さんはかなり悩んだ上での苦渋の選択であろう。彼はこの作品をとことん芝居に近付けることを取った。その結果欲求不満の残る芝居になった。

 役者たちが手にしたテキストと、きちんと読み上げられていくト書きが、心地よく流れていく作品世界に、無理矢理の距離感を作り、それがこの作品自体の魅力を削いでいくことになる。そんなこと田辺さんが一番よく分かっている。リーディングではなく、きちんとした芝居として演出して、上演したいと言う気持ちが痛いほど伝わってくる。これだけしたなら、ほぼこのままでも充分芝居として成立することであろう。舞台美術もスタッフ・ワークも役者たちもこのままで充分だ。

 企画の意図と反することになったとしても、これはもう少し時間を作って再構築したなら必ず傑作となったことであろう。

 主人公のアナを演じるuglyの樋口美友喜さんが素晴らしい。いつもの自分たちの劇団での芝居とは一味違う。行方不明になった夫の帰りを待つ妻の不安を見事に表現している。警察官という仕事の顔と、ひとりのただの女の顔。彼女がこの2つの顔を交互に(あるいは同時に)見せながらドラマは展開していく。冒頭の死体と対話するシーンから、一気にこの不思議な作品の世界に引き込まれていく。

 短い場面を積み重ねていきながら、居なくなってしまった男の帰りを待つ人々のドラマが綴られる。芝居は同時に、行方をくらました別の男アダム(宮川国剛)と彼を拾った男ポール(岡村宏懇)のドラマを交互に見せていく。残されたものと、去っていったもの、その両面から、やがて、すべて消えてなくなっていく、それぞれの想いを描く。この2つのエピソードは全く交錯することがないが、ラストで偶然のように重なりあう。このさりげないラスト・シーンが素晴らしい。

 彼らのそれぞれの物語の向こう側に消えていってしまった(あるいは消し去っていったもの)もうひとつのドラマがそこには確かにあるのだ、ということを感じさせる。この芝居には登場しないアナの夫、彼女が出会う行方不明者たち(丸山英彦が演じる)。彼らの面影がドラマの背後に確かにある。この芝居は余白だらけである。その余白を想像させることで、ここには描かれることのないいくつもの消えてしまった人たちと、残された人たちのドラマまでもが想起されることになる。

 近頃こんなにも刺激的な台本はなかったのではないか。この台本を与えられたなら力のある演出家なら燃えてしまうことだろう。ぜひとも、自分の持てる力を出し切って舞台化したいと望むであろう。田辺さんはきっと歯がゆかったはずだ。これだけ完成された台本と、理想的なキャストを得て、リーディングに仕立てなくてはならないなんて。残念でならない。

 

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