とても不思議な世界を提示してくれる。テリー・ギリアムの『ラスベカスをやっつけろ』や、先日見た『ラスト・イン・タイドランド』なんかを思い出した。要するに薬をやって、ちょっとラリってしまったような芝居だということだ。ここがここではないような気分にさせてくれる芝居でもある。
と、いっても別にあやしい芝居ではない。一応はバック・ステージものである。とある劇団が新作を上演する。本番まであと2週間しかないのだが、うまくいかない。彼らは無事に公演をやり遂げられるのか?という話はよくあるパターンだ。しかし、この芝居はこのストーリーラインを大きく逸脱していく。いつのまにか時空が捩れて、時間軸が歪になる。基本的なアウトラインである芝居を作るという時間すら本当のことだか怪しくなるのである。
キヨカ(西川さやか)と丸山(上原日呂)の2人だけの劇団に新人が入り、さらには客演を呼んで新作の稽古が始まる。台本は丸山が書き、キヨカが演出を担当する。しかし、うまくいかない。キヨカの中にある漠然としたイメージが明確な形にならないからだ。演出家の中でもはっきりしないものを役者に表現できるわけがないから、現場は混乱をきたす。芝居がいつまで経つても、芝居のかたちにならないまま公演日だけが無常にも近付いていく。
そんな中で、劇中劇であるこの芝居自体が、本当は存在しないのではないか、とすら思えてくる。そして、劇団も、公演すらも存在しないのではないかと。気付くと芝居の中の時間も錯綜していく。これはキヨカの頭の中にある妄想でしかないのではないか、ということだ。
もちろんそんなことはない。ここには仲間がいて時間になれば、みんなが稽古場に集まってくる。現実から逃避せず、しっかりそれをみつめて、この芝居を形にすべきだとキヨカは思う。
演出家があまりに困惑しているから、丸山が演出を変わろうか、と言ったりもする。彼女ははたして自分のイメージを形にすることができるのか。よくわからない内面の、もやもやしたものをそのまま舞台の上で見せたいから、わけのわからないダンスシーンを挿入したり、なぜか器械体操のシーンが生じたり、みんなでピラミッドをしようとか、ますます訳がわからなくなっていく。もしかしたら彼女は薬かなにかをやっていてラリっているのではないか。そんなふうにも見えてくる。現実と妄想が紙一重で綴られていく。その両者の境界線はもうなくなってしまう。
だんだんこの芝居がどこに向かっているのかさえわからなくなり、観客は不安になっていく。観客だけでなく、それ以上に舞台上の役者達が不安がっている。主人公である西川さやかが大きな目で怯えている。
そんな中で芝居は佳境に到達するのだ。新作の本番を迎えるなんていうルーティーンワークには陥らない。なんと、いきなりラブストーリーとしてラストを迎える。突然新人劇団員に抱きつき何度もキスするという衝撃的なシーンの後、パニックに陥ったそんなキヨカを丸山がしっつかり抱きとめ、受け止めていく。2人で芝居を始めて、2人でずっとやってきた。今こうして新しい芝居が周囲の仲間の援助で出来上がりつつある。
タイトルの『えんぎでもない』は《縁起でもない》の意味だが、それが最後には《演技でもない》へと変貌を遂げていく。もしかしたらこの公演がぽしゃってしまうかもしれないという不安、そんな縁起が悪いことの予感からスタートした芝居は、演技ではない本当の気持ちを発見するところで幕を閉じる。
自分の中の本当の気持ちに気付かず本当と、演技の間で浮遊していた、想いが、ようやく自分の本当の気持ちに気付く。自分のすぐ傍にいて、自分を支えてくれる彼の存在を受け止めたところで彼女の心の旅は終わっていく。それは、まるでこの芝居を作っている西川さやかと上原日呂の関係とも繋がっていくようだ。この芝居が月曜劇団を2人3脚で支える2人の姿を描いた芝居にすら見えてくる。究極のプライベート演劇か。もちろんそんなことはどうでもいい。
この虚実皮膜のお芝居は、いくつものまわり道を経て、幸福なハッピーエンドを迎える。その時観客は、「芝居を作る芝居」というのは単なる仕掛けでしかなかったことに気付く。
と、いっても別にあやしい芝居ではない。一応はバック・ステージものである。とある劇団が新作を上演する。本番まであと2週間しかないのだが、うまくいかない。彼らは無事に公演をやり遂げられるのか?という話はよくあるパターンだ。しかし、この芝居はこのストーリーラインを大きく逸脱していく。いつのまにか時空が捩れて、時間軸が歪になる。基本的なアウトラインである芝居を作るという時間すら本当のことだか怪しくなるのである。
キヨカ(西川さやか)と丸山(上原日呂)の2人だけの劇団に新人が入り、さらには客演を呼んで新作の稽古が始まる。台本は丸山が書き、キヨカが演出を担当する。しかし、うまくいかない。キヨカの中にある漠然としたイメージが明確な形にならないからだ。演出家の中でもはっきりしないものを役者に表現できるわけがないから、現場は混乱をきたす。芝居がいつまで経つても、芝居のかたちにならないまま公演日だけが無常にも近付いていく。
そんな中で、劇中劇であるこの芝居自体が、本当は存在しないのではないか、とすら思えてくる。そして、劇団も、公演すらも存在しないのではないかと。気付くと芝居の中の時間も錯綜していく。これはキヨカの頭の中にある妄想でしかないのではないか、ということだ。
もちろんそんなことはない。ここには仲間がいて時間になれば、みんなが稽古場に集まってくる。現実から逃避せず、しっかりそれをみつめて、この芝居を形にすべきだとキヨカは思う。
演出家があまりに困惑しているから、丸山が演出を変わろうか、と言ったりもする。彼女ははたして自分のイメージを形にすることができるのか。よくわからない内面の、もやもやしたものをそのまま舞台の上で見せたいから、わけのわからないダンスシーンを挿入したり、なぜか器械体操のシーンが生じたり、みんなでピラミッドをしようとか、ますます訳がわからなくなっていく。もしかしたら彼女は薬かなにかをやっていてラリっているのではないか。そんなふうにも見えてくる。現実と妄想が紙一重で綴られていく。その両者の境界線はもうなくなってしまう。
だんだんこの芝居がどこに向かっているのかさえわからなくなり、観客は不安になっていく。観客だけでなく、それ以上に舞台上の役者達が不安がっている。主人公である西川さやかが大きな目で怯えている。
そんな中で芝居は佳境に到達するのだ。新作の本番を迎えるなんていうルーティーンワークには陥らない。なんと、いきなりラブストーリーとしてラストを迎える。突然新人劇団員に抱きつき何度もキスするという衝撃的なシーンの後、パニックに陥ったそんなキヨカを丸山がしっつかり抱きとめ、受け止めていく。2人で芝居を始めて、2人でずっとやってきた。今こうして新しい芝居が周囲の仲間の援助で出来上がりつつある。
タイトルの『えんぎでもない』は《縁起でもない》の意味だが、それが最後には《演技でもない》へと変貌を遂げていく。もしかしたらこの公演がぽしゃってしまうかもしれないという不安、そんな縁起が悪いことの予感からスタートした芝居は、演技ではない本当の気持ちを発見するところで幕を閉じる。
自分の中の本当の気持ちに気付かず本当と、演技の間で浮遊していた、想いが、ようやく自分の本当の気持ちに気付く。自分のすぐ傍にいて、自分を支えてくれる彼の存在を受け止めたところで彼女の心の旅は終わっていく。それは、まるでこの芝居を作っている西川さやかと上原日呂の関係とも繋がっていくようだ。この芝居が月曜劇団を2人3脚で支える2人の姿を描いた芝居にすら見えてくる。究極のプライベート演劇か。もちろんそんなことはどうでもいい。
この虚実皮膜のお芝居は、いくつものまわり道を経て、幸福なハッピーエンドを迎える。その時観客は、「芝居を作る芝居」というのは単なる仕掛けでしかなかったことに気付く。