優れた児童書は優れた一般書以上にあらゆることの核心を突く。ラジカルだ。この作品は虐めを扱って大人たちの愚かさを糾弾するのではなく、きちんと諌める。バカな大人を優しく諭すようなこの小説を児童だけに与えるのはもったいない。大人たちこそがこれを読んでちゃんと学んだほうがいい。学年主任の高畑先生は子どもたちから教え諭される。彼は子どもたちにちゃんと謝罪する。なかなかいい大人だ。間違いは誰にだってあるからね。
大人はバカか? 子どもをなめているのか? あやまれば、すべて元通りになると本気で思っているのだとしたら…
本の扉に書かれてある本文からの一節の引用だ。作品の本質を的確に示している。いくつかの視点(加害者、被害者、担任教師)から小さな(と、みんなが思っていた)事件を通して、たどり着いたところ。子どもだけの問題ではないが、この子どもたちの問題から目を逸らしてはならない。
些細ないたずらだと思った。だけどそれが大きなことになる。虐めた本人、虐められた本人。まわりにいて何もせずにいた本人。目を背けた本人。安易な仲直りを強要した大人。透明な水槽の中で、死んでいく金魚。
オレ、ぼく、もうひとりのオレ、そして先生。(担任、学年主任、校長)さらには保護者たちも巻き込んで。水槽のような誰も見えない教室で、彼らを見つめることになる。冷静になって見る。誰が悪いというわけじゃなくて、誰もがそこにいる。他人事にはしないこと。自分は関係ないとは思わないこと。
ラストで4人がみんなが一歩踏み出す。明日彼に会いに行く。5人に戻るために。簡単じゃないけど、ちゃんと向き合う。
若い担任教師と、年配の学年主任、さらには校長まで巻き込んで、彼らは子どもたちと同じ目線から描かれるのが、新鮮だった。大人を糾弾するわけではない。大人子ども関係なく対等に問題と向き合う。
「明日、颯斗に会いに行こう」それがオレたちの出した答えだ、と書かれたラストが素晴らしい。