これは傑作だ。舞台となるのは尼崎の市営団地。チラシには「夏の始まり。傍らのドブのような水路にも蛍がやってくる。」とある。冒頭のナレーション。シンプルな舞台装置。それらはこれから始まるドラマを客観視するための仕掛けだ。慎ましく、誠実。そんなある夫婦の破局が描かれる。きっかけは些細なことかもしれない。妻は一緒に蛍を観に行きたかっただけ。もちろんそんな願い事が彼から拒否されたことが、彼女の失踪の理由ではない。だけど、あの時夫が一緒に行ってくれたなら、すべてが元通りに収まった、かもしれない。もちろんあの時「一緒に行こう」と言える彼なら、最初からこんなことにはならない。
夫婦を演じるのは、北村守と水木たね。水木たねの佇まい。それだけで圧倒される。この冒頭のふたりのシーンから一気に作品世界に引き込まれていく。夫は毎日遅くまで働いてクタクタになって帰る。妻とふたり、まだ、子どもはいない。31歳。両親から受け継いだ古びた団地で暮らしている。妻は終日内職のミシンを踏む。犬の服を作る仕事だ。たいした賃金にもならないけど、家計の足しになるから。夫はその日は珍しく早く帰って来た。それだけ。特別な日(ボーナスの支給日、だけど)ではない(はずだった)のに。舞台は尼崎の北、古びた市営団地。ふたりの部屋。
彼には彼女の寂しさをわかってあげることができない。気付きもしない。当たり前の毎日に埋もれていた。もちろん妻を愛している。大事だと思う。だけど、それを言葉にはしない。あまりに当たり前すぎたから。
妻の失踪で、彼はすべてを失った。仕事にも行かず1週間が過ぎた。仕事は辞めてしまった、つもり。次のシーンは営業周りのついでに同僚の先輩(西田政彦)が訪ねてくるエピソード。コンビニのカツカレーを持って。このワンポイントリリーフの西田さんが素晴らしい。何をするわけでもないけど、そこにいて、話を聞くだけ。
話の中心は次のエピソードだ。なんと突然幼なじみが訪ねてくる。あゆみ演じる鈴子は16年前にこの団地を去っていった。高校1年の頃。なぜ、今頃、過去が戻ってくるのか。このふたりのやりとりが芝居の根幹を為す。この芝居の主宰者でもあるあゆみさんは、自分が「面白いと思った戯曲を面白いと思った人たちとやる」というコンセプトのもと自主公演を始めている。とてもわかりやすい。それがただの自己満足にしかならないなら悲惨だが、セルフプロデューサーとして、見事な座組をした。もちろん芝居の中心には自分がちゃんといる。僕は昨年彼女が出演した芝居を見ている。劇団大阪の『空蝉が鳴いている』だ。主役の老女を演じた名取由美子の娘時代を演じた。芝居の終盤一瞬出てきて去っていくのに場をさらっていったから、印象に残っている。今回主役の北村守にまとわりつく女を演じ、また芝居をさらっていった。決して最重要な役ではないけど、彼女がこの芝居の根幹にいる。お話を引っ張るのはこの後登場する峯素子演じる林(向かいの棟の女)のほうだ、峯の不気味さも際立つ。北村の妻の生協仲間で、生協で注文した品を持ってくる。テーブルに品物をタワーのように積み上げるのが怖い。
役者は以上5人のみ。そのキャスティングが素晴らしい。5人とも素晴らしい。彼らのアンサンブルが作品を形作る。アンサンブルと言いつつも、5人が同時に出るシーンは皆無。基本は北村ともうひとり、という2人芝居だ。不在の妻、訪れる人々。微妙なところで夫婦の絆は断ち切られる冒頭の後、職場の同僚、16年振りの再会の幼なじみ(彼女は障がいを持つ2歳半の息子を抱える)が訪れる。30万円の秘密。あの日はボーナス支給日だったこと。そして、生協の荷物を持ってくる隣人。
台本は角ひろみ。きっと余白だらけのその台本を演出したのは高橋恵。彼女はとても丁寧に北村を中心にしたこの芝居を作り上げた。妻と幼なじみ、同僚と隣人。妻と隣人の夫はふたりで失踪したという事実を突きつけられるラスト。だが、そんなお話が大事なのではない。そこからは「お話」ではなく、それぞれが抱え持つ「孤独」が際立つ。彼らの淡い関係性。取り返しがつかない出来事。小さなエピソードの連鎖から立ち上がる絶対の孤独。不在の妻の放つ空白。夫以外の男と付き合っていた(らしい)ことの意味すること。向かいの棟3階、林さんの夫。彼は美味しい水の販売をしている。部屋にある水のペットボトル。そんな小出しにされるいろいろな出来事が見え隠れしてお話の核心に迫っていくのだが、描かれるのは人の心の闇だ。演出は丁寧にそれを救いあげた。
そして、作品の中心にいるのは冒頭に登場し一瞬で消えていく妻を演じた水木たねだ。蛍自身を象徴する彼女が一番素晴らしい。