矢崎仁司監督最新作。あまりにセンセーショナル内容ゆえ、見るのをためらっていたけど、ようやく見る覚悟を決めた。(少し大袈裟だけど、これは女性器アートの探求なんていうお話で、エロ映画ではないことはわかりきっていても、公開時、やはり劇場行くのは躊躇してしまった)
タイトルが素敵で、その気分をこの内容からどう見せていくのかが興味の焦点だったが、ほとんど台詞がなく、音もない静かな映画で、とんでもない要求をする女性(キュレーター)とそれを引き受ける男性(カメラマン)、そして彼の恋人の3人が織りなす風景のようなドラマは、それが何を意味するのかを考えさせられることもなく、ただただ、目の前に出来事を見つめるだけにとどまる。意味はないわけではない。でも、それが大事なのか、と問われると(というか、問われないけど)そんなことを追及しても意味はない。よくわからないけど、心惹かれる美しい映像に目を向け、見つめているだけでいいのかもしれない。
これは絵画や写真ならいいのだけど、それで映画だから、どうしてもそこに意味を追求してしまう。トンネルというシンボルはわかりやすすぎるから、あまり気にしない。なぜ、女が自分の性器を写真に撮ろうとするのかも、その象徴するものがわかりよすぎるから、気にならない。もっと深い意味はないか、と、考えざるをえない。ふたりの女に何を象徴させるか、というのもわかりやすすぎる。矢崎監督は意味を考える愚をやめさせるためにこういう仕掛けを用意したみたいだ。女の母親が画家で死の床にあることや、恋人のおなかに赤ちゃんが宿り、やがて生まれることや、正と死というテーマもあからさまだ。ありとあらゆるところを単純な図式で語れるように用意した。そこには深い意味はないという事を伝えるためだ。では、この映画は何なのか。
安藤政信演じる主人公は、写真を通して何を見ているのか。今回の依頼を通して彼が自分が描きたいものは何だったのかを知る。だけど、そこに執着するわけではない。はたしてこの行為が何なのか、彼にもわかってないからだ。だから、確信して深めることも追及していくこともできない。でも、ただ受け身であるわけではない。
女性器を撮ることが、アートなのか、なんて言われてもよくわからない。彼の写真が神秘的で魅力的だったか、と言われてもわからない。まるで暗闇のようなその写真は、映画のラストで初めて目にする。彼が撮ったモノクロ写真がスクリーンに映させる。でも、大事なことはそこにはない。では、この映画は何だったのか。再びそこに戻ってくる。ここに描かれた「スティルライフ」は、それこそが、この映画自身だということに気づく。表現されるものはそこに尽きる。
まるで『スティルライフ』とでもいう1枚に絵画をずっと見ていたような気分。立ち止まって2時間ほどずっと見ていた感じ。映画はお話だけど、そのお話は、この映画という「風景」に支配される。静止画である。そんなこの静けさに包まれるだけでじゅうぶんだ。意味はいらない。やはり、これは真っ暗な映画館で見るべき映画だった。