総集編ではなく総収編とするこだわりがこの作品の真情だ。ここに収めていくためにこれまでの5つの短編があったのだろう。僕は残念ながら昨年3回に分けて上演された連作を見てないけど、本作を見て、これがまず短編として作られたという事実に納得させられたし、この試みに共感した。柳沼さんはきっと小さなエピソードを積み重ねることで見えてくるものを大切にしようと思ったのだ。それがこうして一つの形になることで、また、新たなものが見えてくる。そういう試みとしてこの作品はある。この施設の案内をするスタッフの女性と、視察に訪れた財団の男性の姿を描くところから始まる。そして、そこで失われたものを見つめる心の旅が描かれることになる。
かつてここに三ツ山養生所という施設があった。震災によってなくなってしまったけど、今もここで彼らは生きている。幻の彼らの日常を描くことで介護するスタッフの姿の向こうに介護される人たちの姿も垣間見えてくる。共に生きる。里山にあるその施設は行き場のない人たちの最後を看取る場所だった。この施設が出来て7年になる。ここで100人の人たちを見送った。だが、この施設はターミナルケアが目的ではない。ここはあくまでもコミュニティである、という矜持がスタッフにはある。
だが今では彼らはもうここにはいない。静かに暮らす日々を支えるスタッフの忙しない日々の姿を描きながら、彼らの不在が胸に痛い。この芝居は彼らを見つめる唯一生き残ったスタッフである女性のまなざしから語られる。それは回想としてではなく、幻のように浮かび上がる。この芝居のたたずまいが死者の目線を思わせる。彼女は生きているのに、生きてここにいるのに、もう死んだように見える。ここに確かに三ツ山養生所があったことを描くこの作品がそんな失われたものへの挽歌を思わせるのだ。
かつてここに三ツ山養生所という施設があった。震災によってなくなってしまったけど、今もここで彼らは生きている。幻の彼らの日常を描くことで介護するスタッフの姿の向こうに介護される人たちの姿も垣間見えてくる。共に生きる。里山にあるその施設は行き場のない人たちの最後を看取る場所だった。この施設が出来て7年になる。ここで100人の人たちを見送った。だが、この施設はターミナルケアが目的ではない。ここはあくまでもコミュニティである、という矜持がスタッフにはある。
だが今では彼らはもうここにはいない。静かに暮らす日々を支えるスタッフの忙しない日々の姿を描きながら、彼らの不在が胸に痛い。この芝居は彼らを見つめる唯一生き残ったスタッフである女性のまなざしから語られる。それは回想としてではなく、幻のように浮かび上がる。この芝居のたたずまいが死者の目線を思わせる。彼女は生きているのに、生きてここにいるのに、もう死んだように見える。ここに確かに三ツ山養生所があったことを描くこの作品がそんな失われたものへの挽歌を思わせるのだ。