谷崎の『刺青』の再映画化。一体何度映画にすれば気が済むのだろうか。ポルノにも充分なるから、いい素材なのだろう。昔にっかつロマンポルノにもなったし、OVのエロ文芸路線としても最適なのだ。今回もそんな流れに乗った企画だし、低予算のOVもどきの映画だが、これを作っているのが、瀬々敬久と井土紀州の黄金コンビなのだから、何があっても、誰に後ろ指指されようと(誰が指す?)見たかった。
この素材を通して彼らが何を仕掛けたのかを目撃しないではいられない。彼らはどんな状況下でも自分の映画を作る。それは数々の新東宝での傑作を見れば一目瞭然だ。特に『雷魚』『汚れた女』の2本は映画史上最高の傑作である。
誰からも顧みられることなく、打ち捨てられた人たちを救うこと。閉鎖を余儀なく迫られている孤児院の子どもたちを助けるために寄付金を集めようとする。この主人公の男女は美人局によって男たちから寄付金を巻き上げていく。このあまりに歪な善意は決してこの映画のテーマではないが、彼らの方向性はこの映画気分を見事に伝える。これは谷崎の原作だなんてとても言えない世界だ。原作から頂いた部分は、わずかに女の柔肌に刺青を入れるという設定だけである。
女は風俗サイトで、さくらとして働いている。ルールを破って、そこで知り合った男と、実際に会う。彼に誘われるまま、宗教団体の男の話を聞く。さらには、その男に導かれて女郎蜘蛛の刺青を背中に彫ることになる。
この一連の展開は強引過ぎるが、それが流れるように描かれ、ありえないだろうとしか言いようのないリアリティーのなさが、あまりにそっけなく描かれ、こんなことももしかしたらあるのかもしれないなんて、気にさせられる。人はそんなにも簡単に騙されたりしないけど、この女は自覚しながら、流されている。だから充分ありえる。
この女は決してバカではない。ただ、空っぽの自分の毎日の生活にほんの少し変化をつけたかった。そのために身を持ち崩しても構わない。別に淫乱な女というわけでもない。ただの普通の女である。寂しかったからなんっていう安易な理由付けもない。身体に一生消えない傷を入れる。それをきっかけにサイトで出会った男たちに続々と会い、抱かれていく。その行為が彼女に何をもたらすのか、わからない。仕事として人を騙してきた女が、敢えて人に騙されていくことを望む。
しかし、その後、男が集金することにより、ただの美人局になる。男は家族にも、仕事にも見捨てられ、一人生きている。妻子とは別居しているが、なんとかして戻って欲しいと願う。だが、妻にはそんな気はなく、別の男と仲良くしている。すがる男は惨めでしかない。宗教に頼っているが、本気でのめり込んでいるわけではない。ただ、縋り付きたい。救いが欲しい。本気で孤児院の子どもたちを助けたいと望んだわけではない。なんでもよかったのだ。
彼女は車の中に迷い込んできたアゲハ蝶をビンの中に入れて飼う。そんなことをしても数日後には当然死んでいく。徐々に弱っていく蝶は、今の自分自身の姿と重なる。
悪い映画ではない。だが、なんだかとても不自由そうに作ってあるのが、とても気になる。新東宝で作っていたピンク映画の傑作群と比較しても、あらゆる面で作りが甘い気がするのは何故だろう。予算的にも、制約面でもかなり自由が利くはずなのに、そうは見えない。この素材で瀬々監督ならもっと踏み込んだ映画になっても良かったはずなのに、もどかしい。
この素材を通して彼らが何を仕掛けたのかを目撃しないではいられない。彼らはどんな状況下でも自分の映画を作る。それは数々の新東宝での傑作を見れば一目瞭然だ。特に『雷魚』『汚れた女』の2本は映画史上最高の傑作である。
誰からも顧みられることなく、打ち捨てられた人たちを救うこと。閉鎖を余儀なく迫られている孤児院の子どもたちを助けるために寄付金を集めようとする。この主人公の男女は美人局によって男たちから寄付金を巻き上げていく。このあまりに歪な善意は決してこの映画のテーマではないが、彼らの方向性はこの映画気分を見事に伝える。これは谷崎の原作だなんてとても言えない世界だ。原作から頂いた部分は、わずかに女の柔肌に刺青を入れるという設定だけである。
女は風俗サイトで、さくらとして働いている。ルールを破って、そこで知り合った男と、実際に会う。彼に誘われるまま、宗教団体の男の話を聞く。さらには、その男に導かれて女郎蜘蛛の刺青を背中に彫ることになる。
この一連の展開は強引過ぎるが、それが流れるように描かれ、ありえないだろうとしか言いようのないリアリティーのなさが、あまりにそっけなく描かれ、こんなことももしかしたらあるのかもしれないなんて、気にさせられる。人はそんなにも簡単に騙されたりしないけど、この女は自覚しながら、流されている。だから充分ありえる。
この女は決してバカではない。ただ、空っぽの自分の毎日の生活にほんの少し変化をつけたかった。そのために身を持ち崩しても構わない。別に淫乱な女というわけでもない。ただの普通の女である。寂しかったからなんっていう安易な理由付けもない。身体に一生消えない傷を入れる。それをきっかけにサイトで出会った男たちに続々と会い、抱かれていく。その行為が彼女に何をもたらすのか、わからない。仕事として人を騙してきた女が、敢えて人に騙されていくことを望む。
しかし、その後、男が集金することにより、ただの美人局になる。男は家族にも、仕事にも見捨てられ、一人生きている。妻子とは別居しているが、なんとかして戻って欲しいと願う。だが、妻にはそんな気はなく、別の男と仲良くしている。すがる男は惨めでしかない。宗教に頼っているが、本気でのめり込んでいるわけではない。ただ、縋り付きたい。救いが欲しい。本気で孤児院の子どもたちを助けたいと望んだわけではない。なんでもよかったのだ。
彼女は車の中に迷い込んできたアゲハ蝶をビンの中に入れて飼う。そんなことをしても数日後には当然死んでいく。徐々に弱っていく蝶は、今の自分自身の姿と重なる。
悪い映画ではない。だが、なんだかとても不自由そうに作ってあるのが、とても気になる。新東宝で作っていたピンク映画の傑作群と比較しても、あらゆる面で作りが甘い気がするのは何故だろう。予算的にも、制約面でもかなり自由が利くはずなのに、そうは見えない。この素材で瀬々監督ならもっと踏み込んだ映画になっても良かったはずなのに、もどかしい。