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映画・演劇のレビュー

劇団 太陽族『往くも還るも ~湊川新開地に捧ぐ~』

2010-01-23 07:54:01 | 演劇
 一昨年の夏、この作品の初演を見たときの衝撃は忘れることは出来ない。なんと六〇年代の労働争議なんかを今頃芝居として上演することに何の意味があるというのだろうか、と不思議に思いながら見ていた。だが、気がつけば、その作品世界の中に取り込まれていた。そして、ラスト、95年1月17日の朝、その一言を聞いた瞬間、全く無防備であったから、それだけで落涙してしまった。思いもしないラストだった。冷静に考えたなら60年と94年という2つの時間を行き来するこの芝居を見ながら、94年の先には95年があることなんて誰の目にも明らかなことであったはずだ。なのに、あの時の僕はまるでそんな自明のことにさえ気がつかなかったのだ。それほどこの作品にのめり込んで見ていた。

 あの時は、何の予備知識もないままでこの芝居を見ていた。岩崎さんの描く革命の夢と、その挫折を描く物語が、この作品のすべてだと思いこんでいたのだ。日本には市民革命なんか生じない、という歴史的事実に対して、岩崎さんがどんな答えを用意したのか、それがこの作品の狙いであり、60年安保から70年安保へと流れていく時代背景と、バブル崩壊後の全てを失った日本を重ねることで、見えてくるこの国の『今』を描くことがテーマだと信じて、その先に彼が何を描くのか、それだけに焦点を絞り込んでドキドキしながら見た。だが、その時の僕は95年を素通りして、08年ばかりに照準を合わせていた。不覚だった。

 その前に、思いもしない地震が神戸を見舞うこととなる。見終えた時、それまでの全てのドラマが吹っ飛んでしまうこらいにショックを受けてしまったのが、あの日の僕だった。

 あれから1年半が経ち、震災から15年目を迎えようとする今日、この芝居の舞台となった新開地で、この作品が、もう一度上演される。KAVCの企画で、太陽族がオリジナルそのままのキャストで再演に挑む。これは基本的には改訂版ではない。寸分違うことなく、もう一度場所を変え、あの作品を見ることにドキドキしている。それは今度は、この芝居が「震災をテーマにしている」ということを知った上で見るからだ。しかも、被災地であるここで上演する。冒頭のドラマリ-ディング(ここで暮らす人たちが紡ぐもう一つの『往くも還るも』)が開演前から始まる。その後、引き続いて本編が始まる。今回はこれが震災を扱う芝居であるということが当然前面に出る。

 だが、これは神戸について、地震について、を中心に据えた芝居ではない。この作品が、震災をどう描いたのか、と期待した人にとっては、肩すかしかもしれない。これは新開地という町と、日本の高度経済成長期に見た夢についてのドラマである。この国が、あの時、何を夢見て、何を失って行くことになったのか、その先に天災である地震があり、それによって人々は、内面的なものだけでなく、目に見えるものとして、多くのものを失っていく。

 小さなビルの屋上にある仮設の小屋で暮らすことになる夫婦。2人は全てを失って博多からここ神戸に帰ってきた。彼らが過ごすここでの半年間が描かれていく。1994年夏。

 彼らがこの先どこに向かっていくのか。それを見つめることが半年後に起こる震災後のこの国の人々の未来とも重なる。何のよりどころもない不安だらけの未来に向けて、この2人がやがて生まれてくる赤ちゃんと共に、漕ぎ出していく。来たときと同じように阪急電車に乗って、神戸から大阪に旅立っていく。その静かなラストシーンに胸がいっぱいになる。2度目ではあるが、僕の中では、この小さな「父と息子の物語」は全く変わることはなかった。寸分違わず同じ気持ちにさせられた。高度成長も、革命も、バブルも、震災も、すべてを抱え込んでこの国の歴史がある。2010年という時間の中を漂い始めた僕たちがこの先に対して感じる不安は、誰の中にも同じようにある。未来は見えない。


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