3部作となった「ワタシのジダイ」シリーズ最終編は、棚瀬美幸さんと同世代の役者たちとのコラボレーションとなる。同じ時代を生きる彼らとの共同作業を通して、「ワタシノジダイ」の核心に迫る完結編だ。タイトルは「生き 老い」である。「勢い」とも取れる。
3人の役者がそれぞれ自分の言葉で12年前の自分を、そして12年後の自分を語るエピソードを挟んで、全体の物語は、91歳の祖父の葬儀で再会した3人の親戚である彼らのかわす会話、というスタイルだ。お話の骨格は葬儀の進行に沿って作られてある。実際の役者たちによる内面のドキュメントと、彼らがここで演じる役としての物語が微妙にシンクロしていく。
40歳前後という時間は人生におけるちょうど中間点になる。そして作、演出の棚瀬さんもそんな時間の中で生きている。これまでの2作品で、平成生まれの世代、昭和の前半までの世代とのコラボを通して、自分を起点にして、未来と過去に向き合う作業をしてきた。だが、そこでもそれぞれの世代の12年という時間を役者たちにテーマとして与えてきた。このドキュメントはそれぞれの時間をどう生きたか。の検証でもある。あらゆる世代を往還して、それぞれが、その「今」と向き合う姿を目撃することで、見えてくるものと出会う。お話の骨格以上にそういうドキュメントが大切になる。だが、今回にしてもそうだが、枠組みとなるお話が、きっかけとして、とてもうまく機能している。特に今回は「葬式」という日常の物語だ。しかし、この連作にとってそれはとても意味深な設定となる。やがて人は死んでいく。だからこそ、今ここでどう生きているのかを見つめることに意味がある。
この芝居の登場人物である3人の男女が、今とどう向き合いどう生きているか、それを描く上で、というか、葬式という時間は誰にとってもそうだろうが、自分たちのこれまで、そしてこの先を立ち止り、考えてしまう時間だ。この連作自体がそうなのだが、何を描くかではなく、その時、どう感じるか、がテーマだ。マイクを使い、時間やキーワードを際立たせる演出もそのための仕掛けである。舞台美術(柴田隆弘)の葬式を象徴する空間はシンプルだけど美しい。小さな芝居だが細部までとてもよく考えられてある。当然のことだが、得田晃子、橋本浩明、そして遊劇体の村尾オサム。この3人の信頼できる役者たちが素晴らしい。
3人の役者がそれぞれ自分の言葉で12年前の自分を、そして12年後の自分を語るエピソードを挟んで、全体の物語は、91歳の祖父の葬儀で再会した3人の親戚である彼らのかわす会話、というスタイルだ。お話の骨格は葬儀の進行に沿って作られてある。実際の役者たちによる内面のドキュメントと、彼らがここで演じる役としての物語が微妙にシンクロしていく。
40歳前後という時間は人生におけるちょうど中間点になる。そして作、演出の棚瀬さんもそんな時間の中で生きている。これまでの2作品で、平成生まれの世代、昭和の前半までの世代とのコラボを通して、自分を起点にして、未来と過去に向き合う作業をしてきた。だが、そこでもそれぞれの世代の12年という時間を役者たちにテーマとして与えてきた。このドキュメントはそれぞれの時間をどう生きたか。の検証でもある。あらゆる世代を往還して、それぞれが、その「今」と向き合う姿を目撃することで、見えてくるものと出会う。お話の骨格以上にそういうドキュメントが大切になる。だが、今回にしてもそうだが、枠組みとなるお話が、きっかけとして、とてもうまく機能している。特に今回は「葬式」という日常の物語だ。しかし、この連作にとってそれはとても意味深な設定となる。やがて人は死んでいく。だからこそ、今ここでどう生きているのかを見つめることに意味がある。
この芝居の登場人物である3人の男女が、今とどう向き合いどう生きているか、それを描く上で、というか、葬式という時間は誰にとってもそうだろうが、自分たちのこれまで、そしてこの先を立ち止り、考えてしまう時間だ。この連作自体がそうなのだが、何を描くかではなく、その時、どう感じるか、がテーマだ。マイクを使い、時間やキーワードを際立たせる演出もそのための仕掛けである。舞台美術(柴田隆弘)の葬式を象徴する空間はシンプルだけど美しい。小さな芝居だが細部までとてもよく考えられてある。当然のことだが、得田晃子、橋本浩明、そして遊劇体の村尾オサム。この3人の信頼できる役者たちが素晴らしい。