小栗康平監督の新作である。師匠である浦山桐郎と同じで超寡作ある彼がなんと10年振りで放つこの作品はいつもの彼の作品のように妥協のない緊張感を湛えた秀作だ。本物の映画を見た、という満足感に包まれる。隅々まで贅の凝らされた厚みのある映像は圧倒的で、静謐を湛えた作品。
藤田嗣治のパリ時代と戦時中の日本での描写を描く。ふたつの時代を切り取る。それをピンポイントで描く。日常描写を静かに描くからドラマチックではない。いきなりパリから日本のシーンになり、とまどう。1920年代と40年代。パリ時代のパーティーに明け暮れ、華やかな描写。時代の寵児として、異国で活躍。それとは対照的な日本の田舎での慎ましい生活。戦争絵画を描く。戦意高揚のため。やがて、戦後、そこを批判されるのだが、そういうのは描かれない。自伝映画ではない。藤田が何を考え、何を思い生きたのかはわからない。ただ、ここに描かれるものだけで、彼の人柄、生き方が見えてくるわけではないけど、精密に描かれる描写を通して、彼の生が感じられる。
オダギリジョーはビジュアル的に藤田のそっくりさんを見せるのだが、(まぁ、あんなに個性的なルックスなので真似しやすいけど)そこはどうでもいい。パリで売れるためには自分を知ってもらわなくてはならない。だから、名前を売る(みんなからフーフー〈お調子者、愚か者〉と呼ばれることを嫌わない)、顔を売る、そんなコマーシャリズムにちゃんと乗っかるところは、ちゃっかりしている。しかし、生き残るためにはなりふり構わず振る舞うのは悪いことではあるまい。
それは、戦時下で画家であるために戦争に協力するということも同じか。自分を時代の犠牲者だなんて思わない。ただ、時代と寄り添いながら、ただ、画を描きたいと願う。それだけなのだろう。必死さを前面には出さないけど、彼は必死に生きた。映画はそんな彼の姿をありのままに見せる。いいとか、わるいとか、言わない。問題はそんなことにはないからだ。孤高の画家の内面の真実に迫るためには、その外観だけを丁寧に辿ることだ、と小栗監督は考える。だから徹底的に感情を描かない。セリフもほとんどない。かつて『眠る男』で主人公をずっと寝たきりにした彼だからこれくらいのことは朝飯前だろう。(まぁ、そういう問題ではないけど)
美しい風景を堪能するだけでも十分満足できる映画だ。パリの下町の風景。日本の農村の風景。そこにたたずむ藤田。だが、そこには芸術家というものの孤独が滲み出る。そういう意味でこの映画は実に単純な映画である。この単純さがすばらしい。