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映画・演劇のレビュー

『迫りくる嵐』

2019-08-11 16:26:43 | 映画

今年一番の期待作だったが、劇場公開時に見逃してしまった。DVDになったのでようやく見れたのだが、なんだか思っていたものとはまるで違っていて戸惑う。勝手な思い込みでしかないのだから、そんなこと仕方ないのだが、予告編から期待した(『殺人の追憶』『薄氷の殺人』に続く、という宣伝文句)ものとはまるで違う。だいたいこれは殺人事件の謎を追うサスペンスではない。犯人捜しを期待するとミスリードされる。なんだかよくわからない映画なのだ。

1997年の中国、11年後、2008年。ふたつ時間が描かれる。(でも、それは終盤までわからないけど)香港返還直前の中国。辺境の小さな町。降り続く雨。(なんと上映時間2時間のほとんどが雨にシーンだ!)不穏な空気の漂う中、連続猟奇殺人事件が起きる。犯人の捜査をする国営製鉄所の警備員の男。彼は警察でもないのに、警察以上にこの事件にとりつかれていく。何が彼をそこまで導くのか。主人公の男の変質狂的な行為。エスカレートする狂気。犯人への執着は思いもしない次元へと彼を(そして、観客である僕たちを)連れていく。

現実から幻想へと、どこまでが現実でどこからが彼の妄想なのか。それすらもわからない。これはデビッド・リンチのような映画で、そういうものだと、思いながら見ていたならここまで違和感を感じなかったのかも、と思い、数日後に、2度目のチャレンジした。(レンタルなら1週間借りたままなので、そういうのも可能だ)

2回目は最初から展開は分かっているので、細部までよく見える。でも、この映画は2度目でもよくわからないシーンが満載だった。改めて思うのは、これは説明不足も甚だしい、ということだ。これだけの描写で理解しろ、というのは作り手の傲慢でしかない。でも、この若い監督(これがデビュー作のドン・ユエ)は平気でそれをする。

狂気に取り憑かれる彼は弟子を死なせ、恋人を犠牲にして、平気だ。異常者は犯人ではなく、彼自身である。でも、そんな男を作り上げたのはこの時代の中国そのものだとでもいうような映画だ。20世紀の終わり、新しい時代がそこまでやってきているのに、自分には何もできない怒りと焦り。それが男を狂気へと導いたのか。11年後、刑務所から出てきた彼を待ち受けるのは新しい時代の喜びではなく、相変わらずの違和感だ。時代に取り残されたという事実しかない。監獄の外はもう雨が降らない世界だ。

彼が見たものは何だったのか。すべてが夢でしかなかったのなら、彼が生きていたあの町やあの人たちは何だったのか。猟奇殺人の犯人は彼自身だったのかもしれない。彼をそこまで追い詰めたのは激変していく「中国」だったのか。こういう映画が中国で作られて平気で公開されているのにも驚く。傲慢で勇気のある映画。2度見て一応そう納得する。


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