このタイトルで家族を扱う劇を作る。その際、下敷きにしたのが、テネシー・ウイリアムズの『ガラスの動物園』だった、というのは言われてみればさもありなん、って感じだ。 今回、FOペレイラ宏一朗が書きあげた台本は上演されなかった。その理由は問わない。台本が書けなかったわけではなく、書いたものが納得いかないものだった、というお話を聞いて、(本人からではなく、劇場のオーナーである福本さんからだけど)そういうパターンもあるのか、と感心した。どこで、GOサインを出すのかは、本人たちの問題だが、でも、告知して公演を中止するのは、観客に対する裏切り行為だ。どんな形であれ上演すべきであろう、というのは、建前で、本音は、彼らの判断に任す、というところだろう。商業ベースに乗ったメジャーな作品ではなく、インディペンデントな作品の場合は、まず作り手を優先させていい。もちろん、観客(それは彼らのファンだ!)を裏切らないように、である。
今回の公演を通して劇団が今以上に成長してくれたならうれしい。上演された作品を見た印象からは、大丈夫だと思える。急遽差し替えで上演された作品は、原点を100分ほどに再構成したリーディングスタイルのものである。テキストを読むという行為によって、より客観的にこのドラマを描こうとした。 家族の物語を、回想という形で語る。1930年代アメリカ、貧しい家庭。追憶の中の母と姉。そして、自分。あの頃の暮らし。今、彼は(彼らは)どうしているのか、ではない。「あの頃」というフィルターを通して描く。だが、これはノスタルジックな感傷ではない。 ここから逃れたかった。でも、あそこには大切なものがあった。姉が守っていたもの。母が守ろうとしたもの。自分が感じていた焦燥。
構成、演出を担当したペレイラは、舞台の奥で、横を向いて座る。レコードを取換えながら、この劇を見守る。自分がそこにいて、ここに描かれる過去の日々を遠くから感じる。そういう立ち位置を故意に設定した。 母親役のののあざみが絶妙な口跡で作品をリードする。停滞するようにゆっくりテキストを読む娘( 西琴美)との対比が見事。100年近く前のアメリカと、今の日本とをつないで、すでにそこにあるテキストを再現することで、過去を再生させることで、どういう未来へとつなげようとしたのか。ぜひ、完成された『どこよりも遠く、どこでもあった場所』を一刻も早く見てみたい。