習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『北辰斜めにさすところ』

2009-03-04 20:59:30 | 映画
 神山征一郎監督が60年前の旧制高校の子供たちを描く。そして、60年後である現在、老境に達した彼らが、100周年となる今年、五校と七校(現熊本大と鹿児島大)野球部による伝統の一戦を両校の中間地点である人吉で開催するという話を並行して描く。

 今こういう話を映画化できる監督は神山監督しかない。若い作家はこういう企画を受け入れないし、興味も持つまい。昭和10年代を再現することはかなり困難だったろう。しかも、独立プロによる映画である。充分な予算は組めまい。だが、映画は見事に厚みのある映像で当時の風景を再現している。チープではなく、確かなリアリティが感じさせられた。バンカラなんて死語となった言葉が、ここには描かれる。

 だが、見終えてなんだかすっきりしない。悪い映画ではない。力のこもった作品だ。なのに、むなしい気分にさせられた。それって何なのか。この映画には一体何の意味があるのか、と考える。単なるノスタルジーではあるまい。かといって、今の老人たちを描くのでもない。「当時の高校生たちのいきいきした姿を通して、今の同世代の人たちへのメッセージを!」なんて言われても、なんだかピンと来ないだろう。「あの頃の自由で、懸命だった若者たちの姿を伝えたい」とか言われても、なんだかなぁ、と思う。

 真面目に作ってあるし、手抜きもない。だが、見ていて焦点がどこにあるのかがよくわからないのだ。若い世代の描写もなんだかおじん臭くて、今の世代の気分ではない。老人たちが高校時代の思い出をいつまでも大事にして、同窓会を今も毎年楽しみにしているというのは、よくわかるのだが、それってなぜなのか、もう少し突っ込んだ描写が欲しい。当然のこととして描かれてあるのが気になる。今の若い世代にとってそういう拘りがどこから生じて、それが生きる上でのどんな支えになっているのかを伝えることがこの映画の使命ではないか。戦争があって命を賭けて生きていた、というのはわかるのだが、それだけではないものをこの映画は描きたかったのではないのか。バンカラ世代の自由で懸命な生き方をノスタルジアではなく、伝えるべきだ。そこにこそこの映画の存在意味がある、と思うのだが。

 もう、後わずかしか生きれない三国連太郎がこの時期に敢えてこの映画を受け入れたのはなぜか、その秘密が知りたい。だが、この映画ではそれはわからない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『さよなら。いつかわかること』 | トップ | 『ハルフウエイ』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。