これは酷い映画だ。これと同じスタイルでこの映画のプロデューサー岩井俊二監督が以前撮った『花とアリス』は傑作だったのに、この映画は表面だけ真似をしてその実、まるで中身のない映画に仕上がっている。これでは映画とも言えない。人気脚本家、北川悦吏子が脚本監督を担当したこの春一番の期待作だったのに。どうしてこんなことになったのか。
誰もいないグランド。放課後の教室。土手の横の小道。自転車で風を切って走る。体育館でのバスケの試合。保健室での語らい。図書館で勉強する。エトセトラ。エトセトラ。
北川はイメージに頼り過ぎた。彼女がTVの仕事をしてきた反動がこの映画には出ている。だいたい自分が今までしてきたことをちゃんと生かした形で映画を作ってもよかったはずなのに、映画であることにあまりに拘りすぎたのではないか。科白できちんと話を展開していくこと。それすら出来てない。まぁ、彼女は科白を今回敢えて極端なまでに使わずにこの子たちの恋物語を見せたかったのだろう。気持ちは十二分にわかる。なんでも科白にしてわざとらしい展開を強要するTVドラマの弊害は誰よりも彼女がよく知ってるだろう。だが、そっけなさと何もなさとはまるで違う。この映画には本当らしさはなにもないのだ。さりげなさがTV以上にわざとらしいのはどういうことか。意味のない長回しとか、2人がただじゃれてるのを延々と見せたり。それが輝かしい青春のヒトコマだなんて言わない。
雰囲気だけで1本の映画を作ることは出来ないのだ。たった85分の映画がこんなにも長く感じた。この2人の時間がすこしも愛おしくなかった。即興で芝居を作ったって、そんなのは映画になりません。恋人同士がじゃれあっているのを延々見せられるのは苦痛でしかない。当事者でなくてはその幸福はわからない。この映画は僕たちを当事者にはしてくれないのだ。これでは北川監督の独りよがりでしかない。ケイオウであろうがワセダであろうが好きに行けばいいやん、と思ってしまうようでは意味ない。そんなにも主人公に共感できないのは致命的である。
岡田将生と北乃きいというフレッシュな顔合わせなのに、もったいない。狙いは悪くない。きらきらした青春のイメージを懸命に捉えようとしてるのもよくわかる。高校を卒業する直前のこころのゆらぎを清冽なタッチで捉えようとした、のもわかる。だが、それが見事に空回りした。ここにはきれいな風景が絵葉書的に描かれているだけだ。台本もシンプルすぎて映画を支えきれてない。
誰もいないグランド。放課後の教室。土手の横の小道。自転車で風を切って走る。体育館でのバスケの試合。保健室での語らい。図書館で勉強する。エトセトラ。エトセトラ。
北川はイメージに頼り過ぎた。彼女がTVの仕事をしてきた反動がこの映画には出ている。だいたい自分が今までしてきたことをちゃんと生かした形で映画を作ってもよかったはずなのに、映画であることにあまりに拘りすぎたのではないか。科白できちんと話を展開していくこと。それすら出来てない。まぁ、彼女は科白を今回敢えて極端なまでに使わずにこの子たちの恋物語を見せたかったのだろう。気持ちは十二分にわかる。なんでも科白にしてわざとらしい展開を強要するTVドラマの弊害は誰よりも彼女がよく知ってるだろう。だが、そっけなさと何もなさとはまるで違う。この映画には本当らしさはなにもないのだ。さりげなさがTV以上にわざとらしいのはどういうことか。意味のない長回しとか、2人がただじゃれてるのを延々と見せたり。それが輝かしい青春のヒトコマだなんて言わない。
雰囲気だけで1本の映画を作ることは出来ないのだ。たった85分の映画がこんなにも長く感じた。この2人の時間がすこしも愛おしくなかった。即興で芝居を作ったって、そんなのは映画になりません。恋人同士がじゃれあっているのを延々見せられるのは苦痛でしかない。当事者でなくてはその幸福はわからない。この映画は僕たちを当事者にはしてくれないのだ。これでは北川監督の独りよがりでしかない。ケイオウであろうがワセダであろうが好きに行けばいいやん、と思ってしまうようでは意味ない。そんなにも主人公に共感できないのは致命的である。
岡田将生と北乃きいというフレッシュな顔合わせなのに、もったいない。狙いは悪くない。きらきらした青春のイメージを懸命に捉えようとしてるのもよくわかる。高校を卒業する直前のこころのゆらぎを清冽なタッチで捉えようとした、のもわかる。だが、それが見事に空回りした。ここにはきれいな風景が絵葉書的に描かれているだけだ。台本もシンプルすぎて映画を支えきれてない。