習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『CUT』

2011-12-30 18:34:53 | 映画
 イランのアミール・ナデリ監督が日本を舞台にして、オール日本人キャストで撮り上げた作品。ルックスは完全に普通の日本映画だ。全編日本語だし。だが、作品事態は当然のようにナデリ監督らしい頑なさに貫かれた観念的な映画に仕上がっている。いつものようにこれもロードムービーだ。ナデリというイラン人の映画監督が東京という異国の異世界を彷徨う姿が主人公を通して描かれるのだが、その主人公が日本人の映画監督であるという設定がなんとも言い難い世界を作ることとなる。異邦人であるナデリの分身を日本人が演じるのだから。西島秀俊は、よくやっている。ただひたすら殴られるだけの役なのに、それにひたすら耐える。無口な主人公はナデリの映画に欠かせない。ナデリは主人公をある状況に置く。それをただ見守る。『駆ける少年』の頃から変わりない。『マンハッタン・バイ・ナンバー』もそうだった。
 
 遥か昔。僕は彼の『駆ける少年』を見て、彼の映画のファンになった。でも、その後、数作だけで、彼の新作はなかなか日本には入ってこなかった。だから、彼の映画を見るのは本当に久しぶりのことだった。昔、80年代のことだが、国際交流基金によるアジア映画の紹介がきっかけとなり、今まで見る機会のなかった様々な国の映画を大量に見ることが可能になり、そこから世界は広がった。ナデリだけではない。優秀な世界の才能が大挙して紹介された。だが、最近はそういう企画はない。商業ベースに乗った映画しか公開されない。本物の映画は日本にはもう入ってはこない。この映画の主人公の言ってることとは少し違うけど、同じように「本当の映画」を求める人間としては、今ある現状は確かに歯痒い。

 だが、この主人公は、ちょっと違うだろ、と思う。単純にこの主人公を理解することはできないし、ナデリが映画と言う共通言語で人間を描くことで、日本人もイラン人も同じだと思わせる。シネフィルである主人公の青年監督は、商業映画ではなく、自主制作で自分の映画を作ってきた。だが、なかなか世間からは認められない。彼は自宅であるオンボロビルの屋上で、古今東西の名作上映を定期的にやってきた。彼の言う本物しかここでは上映されない。そこそこのお客を集めてもう100回近くやっている。ゲリラ的な上映のようだが、今時こういう自主上映なんて可能なのだろうか。彼が今まで作った3本の映画ってどんな作品なのか。そこも気になるが、一切描かれない。更には本編のストーリーを為す殺された兄貴の借金返済を巡る話も、ありえない。1600万ほどを2週間で返済しなければ殺される。彼は殴られ屋になり、1発1万円で、ヤクザから殴られるのだが、誰がそんなお金を出してこいつを殴ったりしたいと思う? そんな奇特な人がいるとは思えないのだが、この組事務所には、そんな奴らがわんさかいるようだ。

 このストーリーに感情移入できるような人間はいないのではないか。こんなもの、ただのひとりよがりでしかない。付き合いきれない。だが、それなりの緊張感があり、スクリーンから目が離せない。100本の映画を思い描いて、映画のために彼は殴られる。映画の殉行者だ。ナデリは誰からも理解されなくても、構わない。ただ映画のために殉じる覚悟だ。その本気は伝わってくるから、話としては無茶苦茶なのに、納得させられる。

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