これには驚いた。こんなにもストレートな作品に仕上がっているなんて思いもしなかったからだ。作、演出の岩崎正裕さんは中島陸郎さんに対して直球勝負を試みる。見ていて気持ちのいい作品だ。中島さんを象徴的に描き、ドラマ自体も韜晦させながら、彼の精神の一番ピュアな部分を切り取って見せたキタモトさん(DIVEプロデュース『中島陸郎を演劇する』)とは対局をいく見せ方で中島さんの生き方に迫る。彼が何を為し、あるいは何を成し遂げられなかったかを丁寧に描いていく。
中島さんの伝記ものというとてもわかりやすいスタンスを取りながら、キタモトさんと同じように中島さんの精神に迫る。最初は時代を追って見せていくが、途中から時間は前後していく。中島さんの意識が混濁していくように、さらには時代が混迷していくように。主人公のN(もちろん中島さんだ)を当然、南勝さんが演じる。だが、中島さんはひとりではない。南さんの背中には「六郎」という名前が貼り付けられる。彼だけではない。ここに登場する線路工夫たちの背中には「陸郎」ではなく、「三郎」「七郎」というような背番号が付けられる。彼らが時にはある状況下の中島さんを演じる。南さんは全体を統括する存在としてそこにいる。
円形舞台にはパネルによって作られた線路が敷かれてあり、それは過去から未来へとまっすぐに伸びているが、時には十字路になったりもする。その中心に立って途方に暮れることもある。岩崎さんは中島さんの遺された戯曲や詩篇、エッセイ等をコラージュして、さらにはそこに実際自分と中島さんが交わしたやり取り(ウイングでの上演中止についてのエピソード)も交えながら、赤裸々に中島さんという人物をここに見せようとする。
岩崎さんは『劇変』で試みたドキュメンタリータッチの検証という試みを今回も踏襲する。単なる「偉人伝」なんかにするわけではない。(そんなものを作ったならば、きっと中島さんは怒り出すだろう)彼の足跡を辿りながら、僕たちが生きる方向を鑑みる。今、関西の小劇場が置かれている困難な状況を踏まえて、その先に足を踏み出すために必要なことをこの芝居は描こうとする。単純なクロニクルではなく、中島さんの足跡たどることからもう一度今を検証し、未来につなげていこうとするのだ。アプローチは両極だが結果的には全く同じことをキタモトさんと岩崎さんはやっている。
中島さんの伝記ものというとてもわかりやすいスタンスを取りながら、キタモトさんと同じように中島さんの精神に迫る。最初は時代を追って見せていくが、途中から時間は前後していく。中島さんの意識が混濁していくように、さらには時代が混迷していくように。主人公のN(もちろん中島さんだ)を当然、南勝さんが演じる。だが、中島さんはひとりではない。南さんの背中には「六郎」という名前が貼り付けられる。彼だけではない。ここに登場する線路工夫たちの背中には「陸郎」ではなく、「三郎」「七郎」というような背番号が付けられる。彼らが時にはある状況下の中島さんを演じる。南さんは全体を統括する存在としてそこにいる。
円形舞台にはパネルによって作られた線路が敷かれてあり、それは過去から未来へとまっすぐに伸びているが、時には十字路になったりもする。その中心に立って途方に暮れることもある。岩崎さんは中島さんの遺された戯曲や詩篇、エッセイ等をコラージュして、さらにはそこに実際自分と中島さんが交わしたやり取り(ウイングでの上演中止についてのエピソード)も交えながら、赤裸々に中島さんという人物をここに見せようとする。
岩崎さんは『劇変』で試みたドキュメンタリータッチの検証という試みを今回も踏襲する。単なる「偉人伝」なんかにするわけではない。(そんなものを作ったならば、きっと中島さんは怒り出すだろう)彼の足跡を辿りながら、僕たちが生きる方向を鑑みる。今、関西の小劇場が置かれている困難な状況を踏まえて、その先に足を踏み出すために必要なことをこの芝居は描こうとする。単純なクロニクルではなく、中島さんの足跡たどることからもう一度今を検証し、未来につなげていこうとするのだ。アプローチは両極だが結果的には全く同じことをキタモトさんと岩崎さんはやっている。