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映画・演劇のレビュー

『天使の卵』をもう一度考える

2006-11-18 10:44:42 | 映画
 きのう村山由佳の『ヘブンリーブルー』を読んで、映画『天使の卵』について、もう一度書きたくなった。あの映画が目指したものがより明確になった気がする。そして、それは続編である『天使の梯子』を読むことでさらに明瞭になる。

 この3作品全体を映画化するためにあの作品はあったのだろう。そうであるなら尚更あの映画は言葉が足りなすぎた。死んでしまった五堂(春妃の夫)という男の影。そこを明確にしなくては映画が読めない。

 死によって始まる物語。それが永遠に続いていく、というコンセプトは、あまりにドラマチック過ぎ、かつ観念的になり過ぎてリアリズムの映画には向かない。しかし、それでもあえて挑戦しようとするのなら、2つの死(五堂の死に始まり春妃の死に繋がる)の間にある歩太の情熱をいかに描くかに賭けるしかないのだが、冨樫森はそこで失敗しているのだ。せっかくの見事としかいいようのないキャスティングを生かせず、ただ美しいだけの絵空事の映画にしてしまった。抽象的な物語に命を吹き込んで見せるのは難しい。ほんの少しバランスを崩すだけで、すべてが意味のないものとなってしまう。

 この映画は、そのほんの少しのところの匙加減を誤ったのだ。作者の村山由佳はこの映画の美しい世界を自分が作ったものの視覚化されたものとして素直に受け入れれたから感動したのだろう。しかし、僕らはこれを1本の映画として見るから、その構造の欠陥には目を瞑れなかった。その微妙な差である。

 一番大切な人を喪ってしまうこと。その痛みを抱え続けて生きていくこと。それを誰かが癒そうとすること。その優しさを知りながらも、それを素直には受け入れられないこと。

 この映画と原作が描こうとしたのは、そういう愛であり、それが永遠に繰り返され連鎖していく世界なのだ。不完全な小説『天使の卵』を冨樫森が補って映画『天使の卵』は生まれた。それを更に補うことで『ヘブンリーブルー』が生まれ、それが『天使の梯子』へと続いていく。

 《意味もなく人は死ぬ。》春妃(小西真奈美)の死を映画はお涙頂戴にしか感じさせなかった。そこが僕は気になってしかたない。さらには、その後大切な人の死を知った歩太(市原隼人)がここからどう生きていくのか。それは春妃がかって生きた日々と重なる。そして、そんな歩太をただ見守るしかない夏姫(沢尻エリカ)の想い。映画はそこを描くべきだったのである。

 今思い返すと、そんなこと冨樫監督は充分知った上で、丁寧にそこを描こうとしていたのだ。しかし、オリジナルのストーリーに引きずられてしまい、歩太と春妃の悲恋物語という古いドラマに足を捕られて、大切な部分が取って付けたような見せ方にしかできなかったのだ。僕が批判するのはその1点だけである。そして、それは作品にとっては致命的なことだ。

 映画を見た直後ボロカスに書いたので、「ちょっとそれは酷いのではないか」と言われた。でも、それくらいにこの映画に期待してたのだ。小西真奈美は美しく、一途に感情をぶつけてくる市原隼人もとてもよかった。そんな、2人を冷静に見ようと努力する沢尻エリカもよくやっていた。だからこそ残念でならなかった。

 もう一点、特筆すべきこと。歩太の父を演じる北村想である。精神に異常をきたし病院で暮らす彼の姿をさりげなく見せる幾つかのシーン。そこでの彼の穏やかな佇まいが素晴らしい。彼の存在が歩太に与えている影響の大きさ。自分も父のようになってしまうのではないか、という不安。それがもう少しドラマの本筋に関わることが出来たならよかったのにと悔やまれる。

 この映画の出来に関しては、いろんな意味で僕なんかより、冨樫監督のほうが100倍悔しい思いをしてることだろう。映画は難しい。

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1 コメント

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Unknown (isis)
2006-12-26 12:13:12
天使之卵很好看吗?
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