前作『キンセアニエーラ』で描かれた3つの短編から一番人気のあった作品を次回作にするという企画。そこで、3本の1本である『最終公演』を長編にして公演する。実験的な試みであった前作はこの作品と直結する。それは最初からそういうふうに企画されたのだが、それがもう思いもしない作品としてここに完成した。
とても嫌な話で、それをとんでもなくいじわるに見せる。不快感満載。でも、その不愉快さが、この作品のねらいである。バックステージものは、よくあるけど、ふつう、こんなにも突き放したタッチで見せることはない。ふつうは自己弁護みたいなことを、したがる。だが、それがここには一切ない。人気劇団になりつつあった劇団キンセアニエーラ。60日前。前回の公演の打ち上げから始まる。公演は大成功。だが、作、演出の日日絵(一瀬尚代)が失踪した。次回公演の劇場はもう抑えてある。劇団代表のトロが演出を担当して、日日絵不在のまま、稽古は始める。
その公演では、これまでの日日絵の書いた作品のコラージュを見せることになるのだが、(彼女がいない以上台本は書けない)それは彼女たちが歩んできたこれまでの道のりを再確認する作業ともなる。
主演の一瀬さんは全編に登場するのだが、一切しゃべらない。ただ、見ているだけ。彼女の存在はほとんどの人には見えない。(ということは、見える人もいる、ということだ。まるで幽霊のようにそこにいる)芝居は、最終公演までの60日間の道程を順に追う。
どこで彼女が口を開くのか。あるいは、彼女が実際に登場するのか。そこでは失踪の原因は語られるのか。等々。だが、徐々にわかる。もう彼女はここにはいない。そして、失踪の理由は定かにはならない。以前劇団を辞めた羽世がやってきて、自分の結婚式にぜひ日日絵に来てもらいたい、と言う。彼女と、日日絵の接点は、ふたりとも、ここからいなくなったこと。彼女たちの関係性も描かれない。
人は、なぜ、いなくなるのか。そんな本質的な問題すら、この作品は突きつける。随所に、さまざまな謎を散りばめた。しかし、そのなぞはなぞのまま解かれない。羽世が辞めたのはなぜか。なぜ、日日絵にだけ、結婚式に来て貰いたいのか。彼女の話と日日絵の話はどうシンクロするか。劇団がどうなるのか。劇団員のそれぞれも思惑もまた、直接には描かれない。これもまた、随所に謎として、散りばめられる。とても、不満が残る作り方を敢えてする。
この挑発的な作劇を通して作、演出の泉寛介さんは意地悪の極限を目指す。ひとりひとりの心の中にある不満や、どうしようもない想いを、悪意を持って描きだす。誰もが、いなくなりたいと思っている。だが、誰もがそこに踏みとどまる。どこか、なんてないからだ。しかし、もし、いなくなったなら?
これは、いなくならない人たちのドラマだ。そんな彼ら、彼女らの、今を追いかけることが、テーマだ。その積み重ねの先にこの芝居がある。公演までの劇団員たちの葛藤を描くドキュメントである。答えはない。なのに、それがこんなにも心地よい。
とても嫌な話で、それをとんでもなくいじわるに見せる。不快感満載。でも、その不愉快さが、この作品のねらいである。バックステージものは、よくあるけど、ふつう、こんなにも突き放したタッチで見せることはない。ふつうは自己弁護みたいなことを、したがる。だが、それがここには一切ない。人気劇団になりつつあった劇団キンセアニエーラ。60日前。前回の公演の打ち上げから始まる。公演は大成功。だが、作、演出の日日絵(一瀬尚代)が失踪した。次回公演の劇場はもう抑えてある。劇団代表のトロが演出を担当して、日日絵不在のまま、稽古は始める。
その公演では、これまでの日日絵の書いた作品のコラージュを見せることになるのだが、(彼女がいない以上台本は書けない)それは彼女たちが歩んできたこれまでの道のりを再確認する作業ともなる。
主演の一瀬さんは全編に登場するのだが、一切しゃべらない。ただ、見ているだけ。彼女の存在はほとんどの人には見えない。(ということは、見える人もいる、ということだ。まるで幽霊のようにそこにいる)芝居は、最終公演までの60日間の道程を順に追う。
どこで彼女が口を開くのか。あるいは、彼女が実際に登場するのか。そこでは失踪の原因は語られるのか。等々。だが、徐々にわかる。もう彼女はここにはいない。そして、失踪の理由は定かにはならない。以前劇団を辞めた羽世がやってきて、自分の結婚式にぜひ日日絵に来てもらいたい、と言う。彼女と、日日絵の接点は、ふたりとも、ここからいなくなったこと。彼女たちの関係性も描かれない。
人は、なぜ、いなくなるのか。そんな本質的な問題すら、この作品は突きつける。随所に、さまざまな謎を散りばめた。しかし、そのなぞはなぞのまま解かれない。羽世が辞めたのはなぜか。なぜ、日日絵にだけ、結婚式に来て貰いたいのか。彼女の話と日日絵の話はどうシンクロするか。劇団がどうなるのか。劇団員のそれぞれも思惑もまた、直接には描かれない。これもまた、随所に謎として、散りばめられる。とても、不満が残る作り方を敢えてする。
この挑発的な作劇を通して作、演出の泉寛介さんは意地悪の極限を目指す。ひとりひとりの心の中にある不満や、どうしようもない想いを、悪意を持って描きだす。誰もが、いなくなりたいと思っている。だが、誰もがそこに踏みとどまる。どこか、なんてないからだ。しかし、もし、いなくなったなら?
これは、いなくならない人たちのドラマだ。そんな彼ら、彼女らの、今を追いかけることが、テーマだ。その積み重ねの先にこの芝居がある。公演までの劇団員たちの葛藤を描くドキュメントである。答えはない。なのに、それがこんなにも心地よい。