今年のHPFオープニング・プログラムだ。関大一高は80分のオリジナル長編に挑む。当日貰ったパンフには台本は「箕面東高OG 原田結子」とあるが、彼女が高校生の時に書いたものなのかもしれない。舌足らずで、でも、とても切実な想いが込められた作品だ。
不思議なタッチで、落ち着いた作品。だから、最初はその摑みどころのなさに、戸惑う。何が描きたいのか、それすら、わからない。ひとりの少女を巡るお話なのだが、彼女の存在が摑みどころのなさの原因なのだ。ふたりの新聞屋とのやりとりも、それが何を描こうとするのか、わからない。少女を受け入れる家族との関係性もそこからどこにたどり着こうとするのか、不明だ。「鬼」ということばがいきなり出てきて、記号としての鬼を巡るお話となるのだが、そこもあまりしっくりこないまま終わる。ちりばめられた様々な要素は興味深いのだが中途半端なまま、投げ出されていくから、見ていてもどかしい。つまらないわけではないので、ついつい見てしまうし、飽きるわけではない。だが、お話がきちんとつながらないまま、放置プレイで、終わるのはどうだろうか?
わかりやすい説明に終わらさないのは、いいけど、脚本も演出も、作品の到達点を見失い、そのまま、投げ出すようにした。作品全体を覆うこのなんとも言い難い不安な気分は、悪くないと思うのだ。だが、それだけではまずい。このお話としてのちゃんとした着地点が欲しい。それは、タイトルである『誰』への答えである。アングラ・テイストというのは曖昧を許すということではない。わけのわからない世界を作るのではなく、この世界の論理が現実を凌駕する瞬間の興奮を見せるのだ。実にもどかしい。でも、彼らの健闘は心地よい。