こういうしっとりした芝居を作ろうとする集団は今の時代どこにもない。要するに、武田一度さんしかいないということだ。しかも、彼はそれを野外でやる。毎年難波宮に丸太で劇場を建てて、上演する。秋の夜の幻のように、劇場は現れて、芝居が始まる。そして、消えていく。空が大きく見えるのがいい。そこに幻の町が出現する。いつものパターンだ。
そこで、お話が始まる。失われた時間を慈しむ芝居だ。だが、それはただのノスタルジアではない。今もまだ、この世界のかたすみで、こういう町があるのではないか、と思わせる。人情があり、痛みがある。それは優しさ、と言い換えても構わない。自分が傷ついているからこそ、人の痛みがわかる。ひっそりとたたずむように生きている。この町では時間がとまっている。
昭和33年、ある地方の町。そこに映画スタッフがやってくる。ここで起きた心中事件を題材にして3流メロドラマを作るためだ。「エロ、グロ、ナンセンス」の新東宝の映画監督近江俊郎(芝居では「三郎」と言っていた気が)が、ニューフェィスの女優を使って安直な娯楽映画を作る。さらには社長の大蔵貢までもがやってくる。だが、静かな町は、変わらない。
戦後13年。あちこちに、そして人々の心に、戦争がまだ色濃く残っていた時代。ここでひっそり暮らす大陸帰りの元女優(中田彩葉)。この不器用な女は、心の傷もまだ癒しきらず、この町のかたすみでカフェを開いて、静かに生きていた。そんな彼女のもとにやってきたかつてのライバル女優。彼女は落ちぶれた今も映画にしがみついている。「もう一度、[活動(写真)]に戻ってこないか」と彼女を誘う。
映画は娯楽の王様で、大衆が喜ぶ映画を作れば、ヒットする。夢を追いかけるのではない。商売だ。うさんくさい大蔵社長の鶴の一声で、すべてが決まる。そんな中、彼の実弟である近江監督(川本三吉)は、「でも、やはり映画は夢だ、」と思う。どんなものであってもいい。「エロ、グロ、ナンセンス」と言われようとも、映画を作りたい。人々に夢を与えたい、そう思う。
この2人を主人公にした群像劇だ。昨年の前作(『ゆづり葉』)と同じ時代を背景にして、同じようにぶきっちょに生きる人々のラブロマンス(?)を見せる。武田さんは今、このパターンの小さな話をとても大切にしている。庶民の哀歓を描く人情劇をよみがえらせる。野外劇なのにスペクタクルとはほど遠いのがいい。大作である野外劇、そこに小さな町を作る。ここにやってきた外部の人たちと、ここで暮らす内部の人たち。彼らの交流を通して、時代が移り変わる瞬間の、その一瞬のかけがえのない光景を描く。
武田さんが芝居を作って40年。若いころの力で押し切るような芝居はもうない。自らの少年時代に見た大人たちの姿を幾分、センチメンタルに、そこそこにはノスタルジックにも見せていく。自分がもうあの当時の「彼ら」の年齢をはるかに過ぎて、一世代以上、もっと上からの目線で、あの頃の20代、30代の男女を描く。若い役者たちに、ベテランもまぜて、日本が高度成長期に突入していく直前の時代を描く。
犯友の若手は、自分が生まれるずっと前の時代を生きた今の自分たちと同じくらいの男女を生き生きと演じる。定番となったストーリー展開は安心して作品世界に浸らせてくれる。日本がまだ若かった時代、国も人も貧しかったけど、必死になって生きた人たちがいた。そこにも確かに夢や希望があったはずだ。105分という上演時間も心地よい。途中にはさまれるのんびりとしたダンスシーンも息抜きとしてちゃんと機能する。(エンディングで、もう一度繰り返されるのも、御愛嬌)
ほつれた髪をなおすように、ちょっと時間もかかるし、面倒だけど、ささいなことだし。しっかり地に足をつけて、生きていこう。そんなふうに思わせてくれる心温まる小品である。
そこで、お話が始まる。失われた時間を慈しむ芝居だ。だが、それはただのノスタルジアではない。今もまだ、この世界のかたすみで、こういう町があるのではないか、と思わせる。人情があり、痛みがある。それは優しさ、と言い換えても構わない。自分が傷ついているからこそ、人の痛みがわかる。ひっそりとたたずむように生きている。この町では時間がとまっている。
昭和33年、ある地方の町。そこに映画スタッフがやってくる。ここで起きた心中事件を題材にして3流メロドラマを作るためだ。「エロ、グロ、ナンセンス」の新東宝の映画監督近江俊郎(芝居では「三郎」と言っていた気が)が、ニューフェィスの女優を使って安直な娯楽映画を作る。さらには社長の大蔵貢までもがやってくる。だが、静かな町は、変わらない。
戦後13年。あちこちに、そして人々の心に、戦争がまだ色濃く残っていた時代。ここでひっそり暮らす大陸帰りの元女優(中田彩葉)。この不器用な女は、心の傷もまだ癒しきらず、この町のかたすみでカフェを開いて、静かに生きていた。そんな彼女のもとにやってきたかつてのライバル女優。彼女は落ちぶれた今も映画にしがみついている。「もう一度、[活動(写真)]に戻ってこないか」と彼女を誘う。
映画は娯楽の王様で、大衆が喜ぶ映画を作れば、ヒットする。夢を追いかけるのではない。商売だ。うさんくさい大蔵社長の鶴の一声で、すべてが決まる。そんな中、彼の実弟である近江監督(川本三吉)は、「でも、やはり映画は夢だ、」と思う。どんなものであってもいい。「エロ、グロ、ナンセンス」と言われようとも、映画を作りたい。人々に夢を与えたい、そう思う。
この2人を主人公にした群像劇だ。昨年の前作(『ゆづり葉』)と同じ時代を背景にして、同じようにぶきっちょに生きる人々のラブロマンス(?)を見せる。武田さんは今、このパターンの小さな話をとても大切にしている。庶民の哀歓を描く人情劇をよみがえらせる。野外劇なのにスペクタクルとはほど遠いのがいい。大作である野外劇、そこに小さな町を作る。ここにやってきた外部の人たちと、ここで暮らす内部の人たち。彼らの交流を通して、時代が移り変わる瞬間の、その一瞬のかけがえのない光景を描く。
武田さんが芝居を作って40年。若いころの力で押し切るような芝居はもうない。自らの少年時代に見た大人たちの姿を幾分、センチメンタルに、そこそこにはノスタルジックにも見せていく。自分がもうあの当時の「彼ら」の年齢をはるかに過ぎて、一世代以上、もっと上からの目線で、あの頃の20代、30代の男女を描く。若い役者たちに、ベテランもまぜて、日本が高度成長期に突入していく直前の時代を描く。
犯友の若手は、自分が生まれるずっと前の時代を生きた今の自分たちと同じくらいの男女を生き生きと演じる。定番となったストーリー展開は安心して作品世界に浸らせてくれる。日本がまだ若かった時代、国も人も貧しかったけど、必死になって生きた人たちがいた。そこにも確かに夢や希望があったはずだ。105分という上演時間も心地よい。途中にはさまれるのんびりとしたダンスシーンも息抜きとしてちゃんと機能する。(エンディングで、もう一度繰り返されるのも、御愛嬌)
ほつれた髪をなおすように、ちょっと時間もかかるし、面倒だけど、ささいなことだし。しっかり地に足をつけて、生きていこう。そんなふうに思わせてくれる心温まる小品である。