全く方向性は違うけれども、教室を舞台にして子供たちと担任の先生による対決が話の軸になる、という意味では『パリ20区 僕たちのクラス』と比較してみたくなる。子供たちひとりひとりが生き生きと捉えられてあるという意味でも、この2本はよく似ているかもしれない。
ドキュメンタリータッチとフィクションスタイルという対極にありながら、この2本の示す「今」の感触はよく似ている。どちらも僕にとってはまるでリアルではない、ということだ。どちらもよく出来た映画だし、それぞれおもしろいのだが、何だかこれでは物足りない。その理由は、これらの作品が頭で作られたものだからだ。作者の手の内で踊らされているだけで、それを突き抜けてくる凶暴なエネルギーが感じられない。甘いとは言わない。しかし、映画としての予想外の凄みは感じない。きちんとまとまっていることは断じて映画としてダメなことではない。だけどこれではなんだか物足りない。
原作小説は衝撃的だった。だが、あれも頭の中で作られたお話でしかなく、作り物としてはよくできている、という域を出ない。それを中島哲也監督が、いつものケレンを抑えて映画化した。この作品は社会派映画はではなく、やはり娯楽映画なのだ。観客を不快にさせるのではなく、お話としてのおもしろさをきちんと伝えていくことに終始する。東宝系全国公開の大作映画としての矩をきちんと守っている。この題材なのにそういう節度をわきまえているって凄いことだ。なのに、映画はことさらエンタテインメントを目指すわけではないのも凄い。
原作のペラペラなところを補強するでもない。そのまま映画化することで、この作品の持つ魅力を正確に映画化するのだ。松たか子のハードボイルドすれすれの演技で、この作品のあやういバランスをキープする。後少しやり過ぎると、これはコメディーになる。その辺は彼女だけではなく、木村佳乃や岡田将生もわかっている。それに対して、少年少女たちは真っ向勝負をかけてくる。あたりまえだ。この子たちが本気にならなければ、映画は成立しない。だが、少年Aのマザコンとか、少年Bの憔悴とか、メーンキャストとなる子供たちの設定のパターン化を、映画はフォローしきれない。
一見今回はクールなタッチに見せかけといて、その実ケレン味たっぷりのいつもの中島節
全開である。特にラストの大芝居なんて恥ずかしくなるくらいだ。基本的にこれは会話劇で淡々としたタッチを身上とする内容なのだが、それを完全に自分色のフィクション世界として作りかえた中島監督の戦略はとりあえず成功しているのだが。
ドキュメンタリータッチとフィクションスタイルという対極にありながら、この2本の示す「今」の感触はよく似ている。どちらも僕にとってはまるでリアルではない、ということだ。どちらもよく出来た映画だし、それぞれおもしろいのだが、何だかこれでは物足りない。その理由は、これらの作品が頭で作られたものだからだ。作者の手の内で踊らされているだけで、それを突き抜けてくる凶暴なエネルギーが感じられない。甘いとは言わない。しかし、映画としての予想外の凄みは感じない。きちんとまとまっていることは断じて映画としてダメなことではない。だけどこれではなんだか物足りない。
原作小説は衝撃的だった。だが、あれも頭の中で作られたお話でしかなく、作り物としてはよくできている、という域を出ない。それを中島哲也監督が、いつものケレンを抑えて映画化した。この作品は社会派映画はではなく、やはり娯楽映画なのだ。観客を不快にさせるのではなく、お話としてのおもしろさをきちんと伝えていくことに終始する。東宝系全国公開の大作映画としての矩をきちんと守っている。この題材なのにそういう節度をわきまえているって凄いことだ。なのに、映画はことさらエンタテインメントを目指すわけではないのも凄い。
原作のペラペラなところを補強するでもない。そのまま映画化することで、この作品の持つ魅力を正確に映画化するのだ。松たか子のハードボイルドすれすれの演技で、この作品のあやういバランスをキープする。後少しやり過ぎると、これはコメディーになる。その辺は彼女だけではなく、木村佳乃や岡田将生もわかっている。それに対して、少年少女たちは真っ向勝負をかけてくる。あたりまえだ。この子たちが本気にならなければ、映画は成立しない。だが、少年Aのマザコンとか、少年Bの憔悴とか、メーンキャストとなる子供たちの設定のパターン化を、映画はフォローしきれない。
一見今回はクールなタッチに見せかけといて、その実ケレン味たっぷりのいつもの中島節
全開である。特にラストの大芝居なんて恥ずかしくなるくらいだ。基本的にこれは会話劇で淡々としたタッチを身上とする内容なのだが、それを完全に自分色のフィクション世界として作りかえた中島監督の戦略はとりあえず成功しているのだが。