TVシリーズは(ほとんど)見ていないが、TVが始まる以前にこの原作は読んでいる。とても面白かった。それだけにTVの『ガリレオ』シリーズの延長線上でこの小説が映画化されるということに少し違和感があったが、それは杞憂だった。『県庁の星』の西谷弘監督作品なので、たぶん大丈夫だとは思っていたが、見終えてほっとした。
天才数学者、石神役を堤真一が演じるというのにも実はかなり不安があった。映画としてのアプローチではなく、TV的なキャスティングだな、と思ったからが、必ずしもそうではなかった。彼が憎らしいくらいに上手い。原作では小太りで冴えない男である石神を堤真一が演じたならただの2枚目になってしまうのではないかと危惧したが、そうではない。「冴えない」という一面を彼はわざとらしくするのではなく、自然に演じている。彼の存在感がこの映画を支える。典型的な2枚目である福山雅治を主人公に配した以上、彼と向き合い存在感を持たせるには堤真一を持ってきたのは正解だった。表面的にはスターの対決を見せるが、核心はそこにはない。そのことを西谷監督はよくわかっている。
天才物理学者、湯川(福山雅治)と天才数学者、石神との対決を軸にしてドラマを作る。とは言っても「善と悪」とかいうのではない。2つの人生がどこで交わりどうすれ違っていくのか、がテーマとなる。タイトルが示すようにこれは容疑者Xである石神が主人公だ。彼がひとりの女のために身を捧げる。その行為に自分の全てを賭けて悔いはない。彼の純愛を描くことのこの映画の意義がある。しかも狂言回しになる福山と主人公である堤を対等に描くことで不幸な天才を不気味なオタクとして徹底的に惨めに見せる。エリートの福山との対比が、微妙な地点で堤だけに感情移入させない。人生の光と影を明確にすることで誰もが湯川にも石神にもなりえるという事実を説得力を持って見せることに成功した。
20歳の2人が大学のキャンパスで出会いお互いを認めあい、尊敬しあう。これってまるで『山月記』の李徴と袁傪ではないか。2人の過去をベンチで語らう2人の後ろ姿を捉えたシーンだけで見せる。そこを基点として別々の人生を歩んだ2人がここで邂逅し、再び別れて行く。お互いが反対の立場になっていてもおかしくなかった。偶然が2人の運命を別った。天才同士が犯罪を仕掛ける立場とその謎を解き明かす立場に立つ。
映画は東野圭吾の原作のイメージを損なうことなく、その上で(たぶん)TVシリーズのカラーもきちんと踏まえた作品になっている(のだろう)。容疑者である石神の切ない恋がリアルに描けたことでこの映画は成功した。湯川が17年も会うことがなかった旧友と再会し、しかも彼の仕掛けた犯罪の謎を解き明かすことを通して彼の苦しみを知るというドラマに1本筋が通っているから、映画はぶれない。人生に絶望し自殺しようとしていた男が、彼女に出会い生きる希望を抱く。そんな嘘みたいな話に説得力を持たせたのは、堤真一の存在感だ。ストーカーまがいの気味悪さを内に秘める。そんな不気味さが映画にリアルを与える。
重い話を周囲のキャラクターが和ませたのもTVシリーズの功績だろう。「ヒットTVドラマの映画化」という最近の日本映画のヒット作の定番を踏みながらそんな安易さから隔世した作品に仕上がった。はしゃいだ場面はオープニングだけで、作品の本題に入るとトーンはまるで変わるのもいい。刑事役の柴崎コウが福山の相棒としてしゃしゃり出ることなく脇役に徹したのもいい。
天才数学者、石神役を堤真一が演じるというのにも実はかなり不安があった。映画としてのアプローチではなく、TV的なキャスティングだな、と思ったからが、必ずしもそうではなかった。彼が憎らしいくらいに上手い。原作では小太りで冴えない男である石神を堤真一が演じたならただの2枚目になってしまうのではないかと危惧したが、そうではない。「冴えない」という一面を彼はわざとらしくするのではなく、自然に演じている。彼の存在感がこの映画を支える。典型的な2枚目である福山雅治を主人公に配した以上、彼と向き合い存在感を持たせるには堤真一を持ってきたのは正解だった。表面的にはスターの対決を見せるが、核心はそこにはない。そのことを西谷監督はよくわかっている。
天才物理学者、湯川(福山雅治)と天才数学者、石神との対決を軸にしてドラマを作る。とは言っても「善と悪」とかいうのではない。2つの人生がどこで交わりどうすれ違っていくのか、がテーマとなる。タイトルが示すようにこれは容疑者Xである石神が主人公だ。彼がひとりの女のために身を捧げる。その行為に自分の全てを賭けて悔いはない。彼の純愛を描くことのこの映画の意義がある。しかも狂言回しになる福山と主人公である堤を対等に描くことで不幸な天才を不気味なオタクとして徹底的に惨めに見せる。エリートの福山との対比が、微妙な地点で堤だけに感情移入させない。人生の光と影を明確にすることで誰もが湯川にも石神にもなりえるという事実を説得力を持って見せることに成功した。
20歳の2人が大学のキャンパスで出会いお互いを認めあい、尊敬しあう。これってまるで『山月記』の李徴と袁傪ではないか。2人の過去をベンチで語らう2人の後ろ姿を捉えたシーンだけで見せる。そこを基点として別々の人生を歩んだ2人がここで邂逅し、再び別れて行く。お互いが反対の立場になっていてもおかしくなかった。偶然が2人の運命を別った。天才同士が犯罪を仕掛ける立場とその謎を解き明かす立場に立つ。
映画は東野圭吾の原作のイメージを損なうことなく、その上で(たぶん)TVシリーズのカラーもきちんと踏まえた作品になっている(のだろう)。容疑者である石神の切ない恋がリアルに描けたことでこの映画は成功した。湯川が17年も会うことがなかった旧友と再会し、しかも彼の仕掛けた犯罪の謎を解き明かすことを通して彼の苦しみを知るというドラマに1本筋が通っているから、映画はぶれない。人生に絶望し自殺しようとしていた男が、彼女に出会い生きる希望を抱く。そんな嘘みたいな話に説得力を持たせたのは、堤真一の存在感だ。ストーカーまがいの気味悪さを内に秘める。そんな不気味さが映画にリアルを与える。
重い話を周囲のキャラクターが和ませたのもTVシリーズの功績だろう。「ヒットTVドラマの映画化」という最近の日本映画のヒット作の定番を踏みながらそんな安易さから隔世した作品に仕上がった。はしゃいだ場面はオープニングだけで、作品の本題に入るとトーンはまるで変わるのもいい。刑事役の柴崎コウが福山の相棒としてしゃしゃり出ることなく脇役に徹したのもいい。