習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『愛と誠』

2012-05-29 20:01:53 | 映画
いくら三池崇史であろうとも、これはないんじゃないか。プロデューサーは、こんな無謀な企画にGOサインを出して、いいのか。しかも、それなりに大予算の映画である。ここまでふざけた映画で、怖くなかったか? 
三池だから大丈夫、とでも思ったのか。でも、観客は、あきれ返ってそっぽを向くのではないだろうか。そして、劇場は閑古鳥が鳴くことになる、かもしれない。たぶん。

これはただの趣味の映画だ。やること為すこと、すべて思いつきでしかない。だから、ここには何の意味もない。『忍たま乱太郎』の時も大概だったが、これはあれを遥かに凌ぐ。しかも、あれはちゃんとお子様向けというパッケージングがあったが、これはいったい誰に向けて作ったのだろうか。それすらわからない。こんなアナクロな企画を今の時代にぶつけてくる意味がわからない。誰がこの映画を見たいと思うのか、ターゲットにする客層すら見えてこない。

ミュージカル・スタイルだが、バカバカしくて、付き合いきれない。最初はかなり笑っていたのだが、だんだん笑いも凍る。だって、あまりにしつこいし。1972年という時代設定も(これは『ダークシャドウ』と同じだ!)美術は大変なことになるのに、そうする意味はわからない。こんな映画はありえない。でも、ありえないことを平気でするのが三池崇史だ。とはいえ、さすがにこのなんでもありにはもう飽きてきた。過激はどこまでもエスカレートする。だから、際限ない。しかも、人は慣れる。もうこれ以上はないのではないか。方向性を変えなくては反対にマンネリ化している。あっと驚く新機軸はもうない。ただバカバカしいだけでは飽きてくる。話自体はアナクロの極みだ。今の時代にこれはないだろう。噴飯ものである。

 だが、72年という過去に設定することで、このなんでもありに多少の意味が生じる。これは必死になって愛と誠を貫く話だ。今の時代に失われたものが、あの時代ならありえたかもしれない。そんな気分にさせられる。そこがこの映画の可能性かもしれない。

 早乙女愛(武井咲)は、一途に彼を追い求める。自分のすべてを犠牲にしても厭わない。それは、最初は子供の頃の事故への償いだった。だが、途中からはそんなことどうでもよくなる。ただ、彼を追い求めていくことだけが、目的になる。変態的ストーカーである。大賀誠(妻夫木聡)は、自分を棄てた女(母親だが)に復讐するためだけに生きる。だが、それはただの母恋でしかない。それを自分で認めるのが嫌なだけだ。ただのマザコン少年でしかない。そんな2人を軸にして、寂しい男や女たちが2人の周囲を行き来する。

 これはあくまでも「純愛もの」なのだ。それを内面告白のミュージカルで、1曲丸々歌って踊って、というような極端な見せ方で、カムフラージュして、各人の内心をどこまでも肥大化しエスカレートさせることで、何がなんだかわからないものにする。その先にある到達点だけのために2時間14分の壮大なドラマを作る。怪物のような映画だ。








コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三浦しをん『舟を編む』 | トップ | 白岩玄『愛について』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。