きっと一瞬で上映が終わりそうなので、公開初日の1回目の上映で見てきた。お客は5人。河瀨直美監督渾身の1作(2作)なのに、まるで観客からは顧みられることはない。最初からこうなることはわかってはいたけど、なんだか悲しい。これは国家の威信をかけた大作映画でもあるはず。だけど、もう今は誰もあのオリンピックのことなんか振り返りたくはないのだろう。忘れてしまいたい、ではなく忘れている。
今回のSIDE:Bは、「非アスリート」を取り上げた。こちらのほうが監督の想いがストレートの反映された映画になっているのではないかと思ったが、必ずしもそうではない。これはあくまでもあの呪われたオリンピック公式記録映画なのだ。だから、暴走はしない。だが、河瀨直美監督の基本姿勢はSIDE:Aと同じだ。昨日見た映画(『峠 最後のサムライ』ね)と同じでこれは負け戦である。度重なる迷走を繰り返し、でも、無理やり終わらせなくてはならない。なんとかして無事に終わらせられたなら、という本音を隠して、成功させれたなら、と願いつつも、本音はやるしかないという空しさ。ただそれだけ。
アスリートはもちろんそうではない。この日のために戦ってきた。彼らの純粋さを描くSIDE:Aとは違い、こちらはなんとかして終わらせることだけを描く作品になった。これではまるで盛り上がらない。別に嘘くさい盛り上げや、大会を支えた人たちの苦労話が聞きたいわけではないから、これはこれでいいのだが、この映画からあのオリンピックの意義や意味は伝わらない。コロナ禍で無理やり断行したことだけ。オリンピック反対の声も描かれるが、当然そこには踏み込まない。そういう映画ではないからだ。森とバッハが主人公のような扱いになるのにはなんだかがっかりした。もっと違う視点から大会を描くのかと期待したからだ。でも、この映画で、個の視点を中心に取り上げることは難しかったのだろう。子供たちの姿を盛んにインサートしたのがささやかな抵抗だろう。彼らが何をそこで見たのか、それを無言で描こうとした。
映画は時間が前後してあわただしく行き来する。2時間3分の映画の中でこの2年間があらゆる側面から描かれていく。アスリートは今回は描かないはずなのに、いくつかのエピソードが挿入されていたのはなぜだろうか。バドの桃田の部分や震災を取り上げた部分が浮いている。なんだかとってつけたようで収まりが悪い。一応ちゃんと2本とも見たけど、やはり虚しい。