こんな難しい芝居を彼女たちは卒業公演として取り上げる。もちろんそれはこのお話が難しいということではない。これを立ち上げることが困難なのだ。これは地味で暗い。女子高生たちがこれをする。淡々としたタッチで緊張を持続させながらそこに微妙なニュアンスを表現できなくては成立しない芝居である。困難を極めることは必至だ。だけど、彼女たちは物怖じせずにこれをやりたい、と手を上げた。(のだろう)
失敗する可能性は十分にあった。危ういことは承知で見ながら、僕はスタートのところから少しつまずいた。それくらいに難しい。ちょっとこのテンションではまずいのではないか、と思う。もっと抑えなくてはこの微妙なニュアンスは伝わりきらない。だから最初の30分くらいは少ししんどかった。猫が車に轢かれる音も少しわざとらしくて、芝居全体が嘘くさくなる。テンションの高い芝居を身上とする彼女たちの従来のメソッドでは太刀打ちできないタイプの台本だろう。だいたい女の子たちだけでこれを演じようという初期設定からして、困難を背負うことになる。そんなこと、わかりきったことだ。でも、これを演じる。
性同一性障害の男子を女の子が演じる。そこに生じる過剰なリアリティはリアルを遠ざける。しかも、稲葉さんが男の子キャラだから、女らしさを表現するという倒錯した設定がどう受け止められるか。だが、ラストの口紅を塗るシーンにはドキッとさせられた。あれはなんだろうか。まず、あそこでは彼女が女の子に見えなくてはならないのに、それでも、男の子に見えてしまう。これでいいのか、と思いつつも、芝居自体は実に感動的で、見事な幕切れになっているのだから、いいんだ、と思う。
当然これはオリジナルとは違うテイストの作品に仕上がった。これでこそ、キンランだ、と思う。そんな不器用なところが作品の力になる。テンションの高さは抑えきれない。いつものように彼女たちの熱いパッションが作品を支える。それでいい。嘘くさくても構わない。根幹を成すところには全く嘘がないから問題はない。
この作品をこんなにも切なくてピュアな芝居として立ち上げたのは奇跡だ。それは彼女たちだからできたことだろう。男の子たちを女子たちが演じることによって、まず、リアリズムを棄てている。その結果リアルではなく、できごとを象徴的に見せることになった。そこに最初は齟齬を感じ入り込めない気がしたが、徐々に彼女たちが作る世界になれてくると、これは事実と言うより、彼らの内面の推移を追いかけることによって、成立する芝居へとシフトしていく。
情報は小出しにされ、なかなか全体像が見えてこないのが、この台本の面白さで、ミステリ仕立てになっている。しかし、緊張感を持ってそれを引っ張っていくのはかなり難しい。父親の無念、姉の死、そして、自らの性情。戦場カメラマンを目指し、拉致監禁され死んでいくこと。宇治川沿いの小さな世界からいきなり大きな世界へと飛び出して、いきなり終焉を迎える。そんなあまりにあっけなく儚い人生を直接見せるのではなく、彼を見守る友人の視点から描くという、基本構造をしっかり抑えた上で、そこをリアルに描くのではなく象徴的に見せていくことで、ここに描かれたものを「誰もが抱える問題」として描き出すことに成功した。キンランらしさを前面に押し出したアプローチで、この繊細な心情を切りとる。自分たちの世界観の中で、この作品を構築する。妥協のない芝居だと思う。立派だ。